新しい川
新川の町は、潮の臭いが強まると、天気は下り坂になる、と新聞社の人が教えてくれた。
新川と書いて「にいかわ」と読む。概ね上市町から朝日町までの県東部エリアである。
ずい分以前は、一つの県「新川県」であったと聞いた。三市三町合せて人口約十七万人。県庁所在地、富山市に比べ、半分にも満たない。
浮辺初留(うわべはつる)は、平成十一年から九年間、このエリアを営業区域とする魚津営業所長であった。
富山本社は二十人の営業部隊であるが、魚津はたった二人である。
魚津、滑川、上市を副所長の桐(きり)が、所長の浮辺は、黒部、入善、朝日のエリアを受け持つ。均等割りになっているようにみえるが、全く均等ではない。地域の仕事などほとんどないからである。せいぜい暑中お見舞いと年賀広告のコブがあるくらいだ。
魚津営業所の大口スポンサーは2社のみであった。一つはパチンコチェーンSグループ、そして宇奈月温泉である。
副所長はSグループ、浮辺は宇奈月温泉を受け持つ。これも均等ではない。Sグループがあまりに巨大すぎて、魚津営業所の取扱の七割を占めてしまうのだ。
当然、受け持つ副所長の態度は大きくなる。
浮辺は所長とは名ばかりで、わずかな取扱に甘んじて静かにしていた。
話は前後するが、魚津へ来る前の富山本社営業時代の二十年の話に戻る。
広告代理店は、スケールメリットを持つところが当然有利で、ビジネスが膨らむ。県庁所在地の富山本社は新聞だの、テレビだの、広域メディアを使うスポンサーが圧倒的に多い。大きく言えば電通は、世界ビジネスでオリンピックさえも演出する。最近ひどい商標談合事件もあったが。
浮辺は、二十一歳から二十年間、富山本社で新聞、テレビ、ラジオ、雑誌のマスコミ広告を扱う営業マンであった。
最初の十年間は、来る日も来る日も、新聞・テレビ企画の枠売りである。地方紙はほぼ三六五日、企画を展開している。時節でいえば、元日の年賀広告などは、まさしくその塊 である。分厚い新聞の付録がとどくが、ほぼ広告の塊といって良い。続いて成人の日、引っ越しガイド、といった時節ごとの企画を枠売りするのである。
後半の十年間は、極端な話、イベント屋であった。一年に十数本、月に1回はイベントの実施と格闘していた。
二月は、立山山麓スキー場のフェスティバル、三月は共済会社の子供向けぬいぐるみ劇場、四月はアルペンルート全線開通式典、五月は遊園地でキャラクターショー、と言った塩梅である。スキー場ならともかく、ファミリー劇場などホール型イベントは、仕事の終わりと始まりの区分感覚がまるでないのだ。
例えば、三月の最終の土日月火の四日間イベントを実施する。土日は出来れば、富山か高岡でやりたい。動員は一千人以上となるとホールが限られる。おのずと抽選になり、負けたらまた仕切り直しをする。
一つのイベントが終わるタイミングで来年春の場所取りである。いつも胃をキリキリ痛めながら抽選となる。
大事な中身、何を持ってくるかのコンテンツの話になる前に、疲れが出て来るのである。
三十代半ば、浮辺の胃と十二指腸には六つの瘢痕が出来た。内視鏡の写真をみた医者が「あんた、このままだと、もっと痛い目に遇う。死んでもいいがか」ときつく注意された。
仕事を受注し、深く取り組むごとに、胃潰瘍になる、薬を処方し収まるものの、また仕事が来て、再発を繰り返す。浮辺は初老を迎える歳になっていた。
そんな折、前魚津営業所長の前川が脳梗塞で倒れたのだ。浮辺は定年まで富山本社にいるつもりであったが、浦広告部長から「お前行け、抜擢だぞ」と告げられた。
「部長、ひどい嫌味に聞こえます。島流しじゃないか」そう食ってかかった。
人事は上層部の判断である。前任の前川が以前から「俺はあいつと一緒じゃ体がもたない」と副所長との人間関係に苦しみ、浦部長に相談を持ち掛けていたようだ。部長はのらりくらりと先延ばしにしていたが、前川所長が倒れてしまい、浮辺に白羽の矢が当たった、という訳だ。
本社でトップクラスにいた浮辺にとっては、魚津営業所は小さな島にしか見えなかった。
魚津に異動となったのは三月半ばである。
挨拶回りと、目先の企画を消化し、四月初めの県議選候補者広告も三件受注したあと、ぱったりと仕事がなくなった。
二十年間、富山本社で企画の枠売り、イベント対応で気が休まる暇もないほど忙しく働いた浮辺に休息の時が訪れたのである。
黒部の宮野山公園で桜満開の散策を楽しんだり、石田フイッシャーリーナ周辺の海岸沿いを散歩したりした。携帯も一日に一回掛かる程度であった。富山営業時代の二十分の一である。一ヵ月ほど特段の仕事もせず、ゆっくり過ごした。身体のメンテナンスもしておこうと胃潰瘍の治療や聞こえの悪くなった右耳のつまりなど治して、五月も過ぎていった。
六月に入り、二つの思わぬトラブルが起こった。
一つは黒部市内にあるT農園の社長から呼び出され、いきなりパンフレットに使用したポジ写真五十枚を全て返却せよ、という。
写真は制作会社、広告代理店、スポンサーの三社が使用権を持つが、所有権利は制作会社がもつ。ポジは返却出来ない、と答えると、逆上してきた。
「貴様、帰れ!もう出入り禁止だ。さっさと帰れ」
取引は中止する方向で、制作会社の了解をもらい、写真は全て返却した。浮辺は、T農園社長に「撮影者の補償もあり、十万請求する。それと当社とは以後、取引はしないでほしい」取引中止は受け入れてくれたが十万は三万に値切られた。浮辺は一刻も早く、スッキリしたかった。
二つ目は、Hゴム工業に七月中旬の「黒部市暑中」の出稿依頼を掛けたときのことである。確か前年二万八千円の実績であった。総務課長は二万五千円に値引きせよ、と笑って言う。浮辺は二万六千円にしてほしい、と頼み込んだ。三千円の値引きは一割以上の値引きとなるためだ。
総務課長は逆上して「お前帰れ!出直してこい」と怒鳴られた。たった千円の行き違いである。ましてや相手は新川の名門企業で、トヨタにフレームを納入する優良会社である。
奥の事務所に小走りで入っていく総務課長を追いかけると、部下らしい人が出てきて「浮辺さん落ち着いて。もう一度出直してください」と入室を拒んだ。結局、総務課長の強引な値引きを受け入れて収めた。
思い返すに、浮辺には富山本社時代に身に着けた強気の雰囲気が敏感に相手に伝わっていたようなのだ。
新川の経営者は、なかなか浮辺を受け入れてくれなかった。どうも波長というか、肌感覚がしっくりこなかった。保守的で大きな変革を好まない様な気がした。
富山市エリアと魚津エリアのビジネス感覚の違い、落差があった。
四月と五月のゆったりとした気分のあとの二つのトラブルは、浮辺にとってはショックであった。
或る日、朝日町のショッピングセンターで、昼食を摂ろうと焼きそばとおにぎりを注文した時のことである。
照明が一斉に消えた。しかし回りの客に動揺は見られない。よくよく見ると灯りは点いていた。しかし、薄暗い白黒写真の感じが取れない。咄嗟に浮辺は、自分の体になにか異変が起こっている。救急車を呼ぶべきかと考えたが、まずは十分ほどうつ伏せになり呼吸を整えると、ようやく周りは普通の色に戻った。焼きそばとおにぎりは食べる気になれず、大半を残した。さらに長椅子で三十分ほど休みを取ると、浮辺はようやく落ち着きを取り戻した。
富山営業から新川営業への環境の変化、営業数字の落差、訪れた休息のあとのトラブル、それらが絡まって軽い「うつ」を引き起こしたのである。
浮辺は、ショッピングセンターの恐怖から、その日を境に猛烈な勢いで新規開拓に走り始めた。この「うつ」を克服するには、成果、数字を出すしかない。これ以上落ち込めば、自分は完全な負け犬になってしまう。
平成十一年六月の終わりころであった。
七月から翌年の三月まで、浮辺は猛烈な勢いで新規開拓に走り始めた。
とにかく数字、成果を出すしかない。出せなければ私は会社を去る覚悟で走った。
十ヵ月間、浮辺は竣工の新聞広告を十件、月一のハイペースで受注した。
地元紙の新川営業部の常川さんには、随分サポートしてもらった。広告業界で新聞広告営業を知っている方なら、この成果がかなりのものである、と分るだろう。
それと環境の落差に戸惑う浮辺を救ったのは、黒部・入善の各所に出る「湧水」のおかげであった。時間が出来たら各所の「湧水」へ行って清らかな冷たい水を口にした。
浮辺は、少しずつ元気を取り戻した。
「うつ」を克服し、仕事の成果も出てきた。
が、もうひとつ悩みがあった。営業所内の人間関係である。小さな事務所で、所長と副所長、電話番を兼ねるデザイナーの三人である。
副所長の桐はことあるごとに私に食ってかかった。会社のトップスポンサーSグループを担当していることをバックに、次から次と私を責めた。
「年間二億も出すスポンサーが新川にありますか。世界のYKKとSグループぐらいだ。その大スポンサーの広告担当、企画課長が私を飲みに誘っている。接待費の二万や三万、ただみたいなもんじゃないか」
会社は個人ではなく組織である。年二回程度の接待は認めるが、桐は年四回以上にすべきと主張する。浦部長から
「浮辺、桐に今回の接待伺いはダメ、やりたいならポケットマネーで行けと伝えろ」
桐に返すと、浮辺に詰め寄った。
「分っとらんねー、上は。二億のスポンサーが逃げてもいいがか」
浮辺は深呼吸し「無くなってもいい。無くなればなったで営業所をたたむ覚悟だ」
実際には、そんなとんでもない話はなかったが、追い詰められた人間として一矢報いたかった。桐は「わかった」とだけ言い、事務所を飛び出していった。
話は魚津に異動になる一年前に溯る。
浮辺は富山本社の営業課長代理として、最前線にいたが、二十年の疲れが出たのか、仕事はマンネリに陥っていた。マンネリは本人には気づかない。知らず知らずに蓄積されたものが表に出て、結果に出て来る。
ことごとく競合の企画コンペに負けた。負けるのは当然の結果である。企画案に深く入り込むことも無く、人づてを頼ったからだ。
二十年余りの営業生活、同じ拠点で長くいることによる疲れが出始めていたのだろう。
久しぶりに大きな仕事、県の自動車団体の周年イベントを受注し、標語の制作、スローガンの公募、新聞広告、テレビスポット、講演会など多岐に渡る仕事に取り組んだ。講演会講師の選定段階で躓き、テレビ局のネットワークを絡めて、講師案を再提示することとなった。決まったのは巨人軍の有名OBであった。講演会は話題を呼び、あっと言う間に満席の申込がきた。
順調にステップを踏まえ、本番になった。だが、一番大切なポイントが抜けていた。「交通安全」をテーマに話していただくことを伝えていなかったのだ。講師は交通安全にはほとんど触れず、巨人軍スター選手の裏話で脱線してしまい、予定時間を大幅にはみ出して、講演が終わってしまった。
不機嫌の塊になった主催者専務から大目玉を食った浮辺はその後、自暴自棄になって飲み、胃潰瘍を再発させてしまった。
平成十年十月、魚津へ異動となる前年の秋の出来事であった。新聞では戦後最悪の不況のニュースが流れ、世間は重い雰囲気にあった。
その後も営業成績が低迷していたところに、前魚津営業所長、前川が倒れたのだ。浦部長は浮辺に抜擢だといったが、浮辺しか選択肢が無かった、が正しいと思う。
魚津営業所に異動となって二年、副所長、桐との軋轢はエスカレートする一方であった。たまりかねた私は浦部長に提案した。
「部長、魚津の営業は私ひとりでいい。暴言を吐く桐は要らない。Sグループも私が責任を持って受け持つ。彼を見直してほしい」
部長は黙って浮辺の愚痴も併せて聞いていたが、一言「わかった」と承諾した。
一週間後、副所長の桐は高岡営業所に異動となった。
パチンコSグループの担当は浮辺に替わった。
Sグループは、自動車整備工場を母体に創業し、昭和五十年代にパチンコチェーンを展開、「客が現金を持って押し寄せる」パチンコ・パチスロブームに乗って四十店舗まで拡大していた。
広告出稿量はすさまじく、新聞、テレビを中心に年間二億以上の取引があった。毎日のように新台入れ替えの帯広告を五段から一ページ十五段の出稿をしていた。補強にテレビ。ラジオCMを打つ。
浮辺が担当になって三年、大きな事件が起こった。店長数人による詐欺である。パチンコ店の店長は当然良く出る台を知っている。常連客をサクラに取り込み、打ち子にするのはよく聞く話である。
その一人と組んで、優良台を教えるのだ。
大勝ちした金を山分けするのである。
人間はお金がどっと手に入ると、生活が派手になる。高級車に乗り換え、高級クラブで飲み歩く。
Sグループ本部に密告が入り、内偵を進めて事実となると、警察沙汰になるのだ。
出来る限り、表に出したくない事実が時にマスコミに漏れてしまう。事がますます大きくなる。
新聞報道を止めよ、とSグループオーナーから、浮辺に怒鳴り声がくる。しかし、この手の報道は止めようとすればするほど、大騒ぎとなり記事が大きく出てしまう。
営業と報道は別と言っても、広告代理店は、新聞社やテレビ局と同じ穴のムジナとみなされ、立場が悪くなる。
浮辺は、結局、年間二億の取引を失ってしまうのである。
浮辺は毎日、毎日、Sグループ本部に出向き、取引再開を求めたが、なかなか改善しなかった。
年間三億の営業所売上の二億を失ったのである。本社の浦部長が「浮辺、言い訳は要らない。二億の別の仕事を取ってこい」と、あっさり告げた。
浮辺が取ったのは、とにかく誠意を見せることだけであった。毎日顔を出す、毎日オーナーに手紙を書く、それを徹底した。効果は三ヵ月、全く出なかった。広告出稿は、魚津に本社のあるAプロが受け皿になって扱っていたが、小さな代理店では、大型出稿は運転資金を回すのも苦慮している様子であった。
代理店は媒体社に翌月現金払いであるが、広告主は三ヵ月くらいの手形を振り出す。
その間の資金繰りは小さな代理店には重荷になるのだ。
毎日、毎日、魚津郵便局に手紙の投函しに足を運ぶと、時々オーナーの奥さんと出会った。
「浮辺さん、私から毎日手紙を出すあなたの誠意のことは、主人にきちんと伝えるから、もうしばらく辛抱しなさい」
涙が滂沱のようにあふれ、浮辺は奥さんの前で泣いた。
新川の拠点に来て、泣いたのは久しぶりであった。心が洗われ、無の境地になった。
取引が再開したのは、それから間もなくであった。
思えば、副所長の桐との軋轢も、異動後に訪れた大きなトラブルの時も、自分が悪いとは全く思わなかった。なんで俺ばかり、と嘆くだけであった。
ところが毎日手紙を出し、反省の言葉を繰り返すと、人間は変わるようだ。
浮辺は、以後オーナーとの関係がより強くなり、仕事がスムーズになった。
ポジ写真トラブルを起こしたT農園の社長とも、改めて謝罪に訪問すると取引を再開してくれた。
Hゴム工業の総務課長は、マジシャンでも有名であることを知り、マジックショーを観に行くと、顔をほころばせた。
九年間、新川エリアという新しい川を渡れたのは、浮辺の人生にとって貴重な時間であった。新川の人たちは、やさしくもあり、冷たくもあったが、皆なぜか純朴な血が流れているようだ。
「浮辺さん、あんたが頼みにきた新川支社企画の、すんぶん広告出すちゃ」新川の人たちは大半「しんぶん」とは言わず「すんぶん」なのだ。独特の訛りがなつかしい。
チラシを出すはずが、浮辺がきたから新聞に変更する、テレビスポットも追加する話が次々と付いてきて、浮辺の顔は広がり、お得意数はかなり増えた。
浮辺は五十代になっていた。