「薔薇の聖櫃」
約束の時間通りに玄関のチャイムが鳴った。初めての出会いに怜一は一瞬のためらいを感じながらドアノブに手を掛けた。微かに震える手でドアを開けた。戸口に立つ彼女は黒い小さな瞳の中に不安な霞を漂わせながら怜一を見つめ頭を下げた。
穏やかな山並みの稜線を思わす眉を僅かに隠す程に切り揃えた前髪と、左右に垂れた黒く長い髪が彼女の表情を暗く隠した。
「始めまして。雨宮礼です」
夏の終わりの季節とはいえ朝早い日差しの中に鋭い暑さが感じられた。その光を背に影を作った面に赤く艶を帯びた薄い唇が僅かに動いた。私の鼓動は甦った「雨宮かおる」の記憶でその動きを早めていた。
まるで当の本人が目の前に立つ彼女の年齢に甦り我が家にいつもと変わらず訪れた気持ちになったからだ。子である以上はその血を流れ受け継ぎ当然の事であろうが彼女が放つ雰囲気仕草は余りにも「雨宮かおる」そのものだった。私はあの頃感じた情熱が体中に湧き上がるのを止める事は出来なかった。
私は以前母が書斎とて同じ仲間達のサロンとして使用していた部屋に彼女を招いた。ほぼ真四角の建屋の東南の一角を丸味の帯びた小さな窓枠を一面に広げた部屋だった。朝日が昇り夕日の赤が消える頃まで一日中その部屋は明るかった。
沈みゆく残光を一気に燃焼させる西日を避ける為にガラス窓の影に置いた天然木の机。板張りの床の上に一枚の畳を置き薄い座布団の上で母はいつも背筋を伸ばし正座していた。
部屋の中央には丸い大径のテーブルが置かれペルシャ猫の優雅で細い曲線を思わす足を持つ椅子が並び、絶えずそこには女性達のさんざめく笑いと言葉と時折鞘に収めた刃先の嫉妬で溢れていた。
代々有名な国文学者を輩出し自身もその流れに乗せられ、大学で教鞭をとり花やお茶を厳格な母親から習い、いつも着物姿で立ち振舞う古式の態の母であった。しかしそれが逆作用して容易く人を信じ懐の中に入れる性格が身に付き、その為でもあろう母の回りにはいつも学生や当時自ら編集発行していた短歌の同人誌の仲間がいた。
母が亡くなると私はその大きなテーブルの上に女性達の艶やかで楽しくて、そして陰湿な言葉や姿を置いたまま部屋の片隅に追いやった。そして中央にキャンパスを置き化粧や紅茶の香りの替わりに油絵具の濃厚な匂いを床面に這わした。それでも壁を覆い尽くす棚とそこに並べられた本や母が愛用した机と畳と薄い座布団はそのままにしておいた。
彼女は部屋に入ると真っ先に、その机の前に座ると関節の節も見えぬ白い指先で表面を撫でた。そして納得したように小さく頷くと、私の方を見て微笑んだ。
―本当に、かおるさんが戻ってきたような
・・・―
私は微笑み返した。
雨宮かおるも同人の一人だった。快活で華やいだ雰囲気を絶えず回りに振り撒いていた。それでいて出しゃばる事もなく、年輩者が多い中で、若さゆえに皆から愛される人気者であった。母に言わすと短歌に関してはまったく才能のない子だった。ただ一生懸命に向かってくる姿勢だけが取り柄だった。その一途さが母に気に入られる所以だったかもしれない。
雨宮かおるが、いつどうして同人に加わったのかは憶えていない。いつの間にか紛れ込み、やがては母の横で校正や編集作業を手伝い、運転の苦手な母に替わってハンドルを握り、それどころか家事の事、母と一緒にバラ園の手入れ。いつしか片時も離れぬ存在となっていた。
彼女は机から離れると窓際に寄り立った。そこから見える庭は総てバラの花で満ちていた。四季咲きのバラは年中赤や白や黄色の艶やかさを誇らしげに見せていた。そして母がいた頃はこの書斎にもバラの花で溢れ、年配の女性達さえも引き立たせ、その香りは恋を忘れた身にも心ざわめかす効力を発散させていた。
しかし今見詰める彼女の目は淋しげであった。まるで雨宮かおるに無言で叱られている気がした。
「男一人なもので、手入れが行き届かなくて」
私は済まなそうに言い訳をした。実際庭を接する隣りの老夫婦の手を借りなければ、私には何一つ出来る物はなかった。
「いいえ、素敵なお庭ですわ」
そう言って振り返ると彼女は改めて部屋の中を見渡した。
「このお部屋も」
そう言いながら、安心して、というように大きく頷いた。その仕草は雨宮かおるが得意な時にするのと同じ物だった。
私の右手が思わず人差し指を立てた形を取っていた。その指先で軽く雨宮かおるの丸味を帯びた額を突き二人は笑い合った。私より三つ下の彼女を、私は好きだった。ためらいがその動きを止めた。二人の間に時空を超えた沈黙があった。
「今日、お伺いしたのは。実は」
彼女の表情が、急に空を覆い始めた雲の暗さのように陰った。私はそんな雰囲気を打ち消すべく、陽気にステップを踏む仕草で、片隅に追いやったテーブルに誘った。
彼女は椅子に座ると大きめのショルダーバックから、どこにでもある薄茶色の厚めの紙封筒を取り出した。四辺が潰れたその箇所から、幾筋もの皺がドライフラワーのような広がりを見せていた。
「これは?」
私は誘われるように覗き込んだ。彼女はためらいがちに紙封筒の中にまだ小女らしさを残す白くふくよかな指を差し入れた。取り出されたのは分厚い原稿用紙の束だった。表に書かれた文字が飛び込んできた。
「薔薇の聖櫃」
第一章「薔薇の夢想」第二章「薔薇の戯れ」第三章「薔薇の秘跡」
それぞれの下方左横に母「室井帝子」と「雨宮かおる」の名が書かれていた。
墨色の艶やかさ、乱れのない髪先を思わす文字の流れ。間違いなく母の手によるものだった。母はいつも姿勢を正し、和歌を思考する時も半紙に墨と筆を使用していた。対して「雨宮かおる」の文字は丸味を帯びた、彼女の頬笑みにも似たペン先の深い跡だった。
「雨宮かおる。つまり私の母から送られてきた物です」
そう言うと彼女は唇を噛みしめ、私の反応を確かめるように見詰めた。
あれはいつの頃だったろう、夜更け母の書斎に明かりが灯っているのに気を誘われ覗いてみると、母はいつもの定位置に座り、書き物に集中していた。顎を引き後ろ襟から伸びる首筋が長く白く美しかった。鬢の乱れが艶かしくも感じられた。
私はその時母が万年筆を持ち、原稿用紙にペン先を走らすのを見た。それは私にとって初めて見る奇異な光景だった。母は私の存在に気付くと、一瞬はにかむような笑顔を見せ手招いた。私は母の横に座ると、原稿用紙を覗き込んだ。レンガ色の升目に一字一字崩さぬ文字が書かれていた。
「小説を書いてるの」
「小説? お母さんが?」
私は母の横顔を見詰めた。耳朶とその裏の凹みが薄桃色に染まった。
「少女時代、小説を書きたかったの。この万年筆も原稿用紙も、その時揃えた物」
そう言って母は薄い青の地に、真っ赤なバラの花の模様を磨り込めた万年筆の先にキャップをすると、私の前に置いた。私はその万年筆を手に取った。
「でも両親の反対にあって」
一人娘の母はいつも家系の重さを背負い、家風という風に晒されていたのだ。
「かおるちゃん。あの子の快活な仕草と、自由な発想を見ていると、何だか若返ったような気持ちになるの」
「それで昔に戻って、小説ですか」
「可笑しいかしら」
「読んでみたい」
私は書き掛けの原稿用紙に手を伸ばした。
「ダメッ」
厳しい言葉で遮り原稿用紙を伏せると、今まで見せた事のない愛くるしさを視線に込め、こめかみに細い皺を作り私に笑い掛けた。それは虐める事を楽しむ幼女の目だった。
確かに雨宮かおるが来てから母は変わった。それまでは笑う時も背筋を伸ばしたままで、わずかに目尻と口元に笑みを作って、小さくうなずく程度の仕草だった。それが時にはのけぞって大きな声で笑った。今までバラの手入れは総て自分一人で行なっていたものが、雨宮かおるには手伝わせ、しかも書斎を飾る為にしか切らなかったバラを、惜し気もなくサークルの人や隣りの老夫妻に与え始めた。
それは間違いなく雨宮かおるの、どこか少女の無邪気で破廉恥な性格のせいだった。厳格に育てられ自分の将来を両親に押し付けられ、結婚さえも言いなりに受け入れ、言わば自分の人生そのものを他人に強制され委ねる事に反発も感じなかった母だった。
そんな母の精神を解放したのが雨宮かおるだった。短歌の指導にあたっては厳しい母だったが、やはり他の人に対するよりは甘いところが見受けられた。そしてそれ以外の事に当たっては、母と娘というよりは姉妹に近いような、いやそれ以上のバラの濃密な甘い香りが二人の間に漂っていた。
私に「小説を書いてるの」と告白してからは、母は日中も堂々と原稿用紙を開くようになった。相変わらず私に見せる事はなかったが、雨宮かおるを横に座らせ、お互いの額をくっつけ合って秘かに微笑み合い、体を密着させ絡ませて文字を走らせていた。私はそんな二人の姿に嫉妬した。
私は雨宮かおるが好きだった
私は原稿を手に取った。重みのある厚みと同時に放たれたインクの匂いに私は母の面影を感じた。彼女も又その原稿の表紙を見詰めた。しかしその射るような視線には私とはまったく違った感情があったに違いなかった。
確かに母の文字だった。丁寧ないかにも慈しみを感じさせる、幼き私をそして雨宮かおるを抱いた温か味だった。
母の突然の死と共に短歌の同人達は去った。雨宮かおるも姿を消した。咲き誇るバラの花の中で、その棘に自ら肌を傷つけ血を流し、狂気そのままに舞うように彷徨っていた最後の姿を、私は庭を見る度に思い出していた。
その後私は、母が残したバラの園を見ながら、サロンとしていた書斎をアトリエとし、本格的に画業に取り組んだ。私は疑う事もなく母とかおるをテーマとした。私は絵筆を取りながら二人の秘め事を思い続けた。
女主人公と少女の愛は愛慾とうい性の匂いと、そしてバラの香料で包み込まれ益々成熟されていった。バラの幾重にも重なり合った肉厚の花弁の中で、秘事は時には密やかに時には大胆に繰り広げられた。赤の情熱、青の祝福、白の純潔、そして黄色の嫉妬。
母は多量の睡眠薬を飲みバラの花びらで埋め尽くされた湯船の中で死んでいた
私は大きな溜息と共に、第二章「バラの戯れ」第三章「バラの秘跡」の原稿を取り出し、その表を指の腹で愛撫するように、愛おしさを込めて撫でた。彼女の唾を飲み込む音が聞こえた。
「その三つの作品は、お母さんが私に宛てた最初で最後の小包です。それは貴方様のお母様の物でしょ」
彼女はきっぱりとした口調で尋ねた。私はそんな彼女の気負いを解すように、微笑みながら、エエ、と答えた。しかし彼女は薄紅色の唇を強く噛んだ。
「お母さんは、その三つの作品を『雨宮かおる子』として、さも自分が書いたかのようにして出版した。その原稿そのままに」
妥協を許さぬ若さゆえの純粋さであろうか、私はそれと同時に、一度信じ込むと他の意見を受け入れようとしない、雨宮かおるの性格を思い出した。
「礼さん、と言いましたね。この原稿は確かに母の物です。でもこの作品は母と貴女のお母さんとの合作なんですよ」
私は再び原稿を前に、二人が頭をくっつけ頬を寄せ、密着する互いの側らで指を絡ませ、時には戯れに相手の胸や太腿に手をやりながら、こんなのどう、こうしたら、と頬笑み頷き合い、紫赤の豊潤なバラと、まだ紅の色さえ曖昧な蕾の唇を重ねる、二人の覗き見た姿を思い出していた。
「合作ですか?」
彼女は半ば疑いの滲んだ不安気な表情を見せた。私はそんな彼女に向かい、小さく頷いて見せた。
「でも?」
さすがに、あの時の二人の様子を娘である雨宮礼に言う事は躊躇された。
「私はいつも見ていましたから、間違いはありません」
庭に出て土をいじり、バラの手入れをし、一輪の花を取ってそれぞれの髪に差し、時には真っ赤なバラを口に咥え、フラメンコの踊りを真似る母。およそ普段では見られぬ奔放な姿を見る事もあった。
いつしか二人の間には、息子の私でさえ入る事の出来ない雰囲気がバラの棘で作り上げられていた。私はいつしかそんな二人を強い嫉妬の目で見詰めていた。母を奪った雨宮かおるを、恋慕する雨宮かおるを横取りした母を。
私は立ち上がると背後の壁を覆う本棚から一冊の本を抜き取り、彼女の前に置いた。
第四章「薔薇の聖櫃」
「貴女のお母さんは、この本の出版を見届けて自殺した」
彼女は本から目を外す事なく小さく頷いた。
「文体は第一章から第三章までと、まったく変わりません。でも第四章の原稿は貴方の方には送られてこなかった。私の手元にもない」
文才はどちらにあったのだろうか。原稿用紙に文字をしたためたのは、第三章までは確かに母だった。しかしストーリーは一体どちらが主に考えたのだろうか。私は合作という言葉を思わず口にしたが、この第四章「薔薇の聖櫃」を読む限りは、母の死後に雨宮かおるが書いた物と思われた。
「では第四章の原稿はどこにあるのでしょう」
「多分『雨宮かおる子』貴女のお母さんが『室井帝子』私の母に見せる為に、薔薇の秘跡に持っていったのではないでしょうか」
第三章「薔薇の秘跡」は壮絶な場面で終わっていた
様々な色彩で溢れるバラの庭。その繁みの中でバラの枝で編んだ冠を頭にしただけの全裸の少女。うつ伏せに横たわったその背に尻部に太股に、狂気の言葉を浴びせながら、バラの花の付いた枝で激しく打ち据える女主人公。一鞭当てる度にその棘は無垢な柔肌に喰いこみ、あるいは引っ掻き、血を滲ませる。
少女は呻き声を上げ体をくねらし耐える。枝先の花びらが散ると女主人公は新たな色のバラの枝を切り取り、再び打ち据える。少女の薄い背に、小さな貝殻を思わす肩甲骨に、円やかな丸味の二つの盛り上がりに、そしてしなやかに伸びる太腿に。やがて血は滴り落ち皮膚は裂け、赤や黄や桃色の花びらの絨毯が敷き詰められる。
少女はやがて痛みに耐え切れず、悲鳴を上げ許しを請う。荒い息、咽ぶ涙。女主人公はようやく手にしたバラの枝を打ち捨てると、優しく少女を抱き寄せ、今度は涙を流しながら、その全身を慈しむように唇を這わせ、流れ出る血を舌先で掬い取る。愛撫にも似た感覚に少女は堪らず身を委ねる。
女主人公の手は胸を鷲掴み、やがて秘部を弄る。バラの園に咲き乱れる花々は息を潜め、二人を包む薫りを放つ。沈みゆく夕日の赤が重ね縺れあう肌を紅色に染める。唇を合わせ舌を絡ませ、その先を柔らかく歯先で挟む。そして力強く細く尖った顎に力を込める。激痛がその一点を襲い、少女はしがみつく。その指先が背に食い込み、血が滲む。そして薄闇の広がりの中に葉影と色を無くして喪に服す花びらの中、二つの裸形が重なり合って横たわる。
しかし現実は違っていた
夏の終わりを告げる激しい雨が、雷を伴って降っていた。強風に煽られて傘はまったく役に立たなかった。北海道に向かう飛行機は動く気配を見せなかった。私は一か月程の摩周湖周辺のスケッチの旅行の予定を、一日延期する事を決め自宅に戻った。玄関先の灯りは風の強さに吹き飛ばされ、家全体が黒い塊に見えた。私は軒先に体を隠し、コートの濡れを手で払いながら、あらぬ不安に駆られ庭の方を覗いてみた。
闇の中で庭全体が大きく揺れ騒いでいた。咲き誇ったバラの花弁が飛び散り、葉擦れの音がざわめく亡者共の慟哭のように聞こえた。私は怯えにも似た感覚に捉われ、得体の知れぬ恐怖に全身をすくめた。
母が一人嵐の夜に身を潜め、慄く姿を想像した。私は素早く玄関のドアを開けると、体を滑り込ませた。そしてそこに雨宮かおるの赤い踵の厚いサンダルを見つけた。人の心さえ翻弄しかねない不安な夜、女性二人が身を寄せ合い、一夜を明かすのも別に不思議はない。むしろ母の事を思うと、それは賢明な思案かとも思った。
私は旅行カバンを置くと濡れた靴下を脱ぎ、静かに二人がいるであろう書斎へと近付いた。窓ガラスや外壁を打つ雨音、屋根を揺さぶる風の音。家の中まで入り込むそれらの響の中で、私は異様な叫びを耳にし、思わず書斎の前で立ち止まった。
僅かに開いたドアの隙間から、中からの光が廊下の面を明るく切り裂いていた。声はその光の粒子に入り混じって洩れてきた。それは間違いなく母の声だった。そして狂気にも似た声は、雨宮かおるが発する呻きだった。
母の身を案じる不安と、雨宮かおるに対する見てはならぬ興味とに駆られ、隙間から覗き見た。床の上に裸体の母がうつ伏せに横たわっていた。いつも丸く包めた髪が長く広がり、母の表情を隠していた。白い肌だった。その肌に赤い筋が幾本となく走り、血が滲み出ていた。
一糸纏わぬ雨宮かおるが、これも髪を振り乱し、細い腕をしなやかに、手にしたバラの小枝を打ち下した。母が呻き背を反らした。枝先についたバラの花びらが砕け、母の背に赤い文様を作り上げた。今度は青いバラが二つに割れたふくよかな盛り上がりの上に打ち据えた。散った青い花びらは滲みでた血の上に刺青のように張り付いた。
花を摘む少女は無情に鋏を入れる
私は思わず引き摺り込まれそうになる自分を制御するのに必死だった。まるで殺気を孕んだ舞台の上で、陶酔した役者が演技を忘れ、今迄閉じ込めていた見えぬ己を出現させているように思われた。私はいつしかそんな芝居の観客になっていた。
母が左手を上げ許しを請うた。その腕にバラの蔓が巻き付いた。蔓先が自在に伸び曲り、左右の手首が絡み取られると同時に、その先端は上方へと伸び、天上から吊下がったガラス玉の煌めくシャンデリアに巻き付いた。両腕が伸び母の体が引き上げられる。バラの花びらの衣装を、血の滴る肌に纏った裸身は無抵抗に伸びきり、母は観念したように薄く目を閉じ、唇は微かな吐息を漏らした。
雨宮かおるは、いつもの憂いを秘そめた快活さの中、瞳を赤いバラの花汁で染め、若さの象徴たる地肌の艶やかさを、白いバラの花粉で塗し、唇を青いバラの花弁で色付けし、しなる鞭のごとくバラの枝を打ち振い、ミサの祭壇に捧げられた生贄と化した母の肉体に、喰い込ませ絡ませる。そして生血を啜り肉を食む。
風は荘厳な「レクイエム」を奏で、雨音は来るべき「最後の審判」の足音を響かせる。私は総ての恐怖を忘れ、唇の端に薄らと卑猥な笑いを浮かべながら、子悪魔達と身を寄せ合い、バラの葉群に身を沈め覗き見る。
第三章「バラの秘跡」は終りを告げ、母は自らの命を断った
母がなぜ死という事を選択したのか、私には判らない。夢とも空事とも思える、あの嵐の夜の書斎で繰り広げられた光景が、第三章「バラの秘跡」ではバラ園での出来事となり、苛む人と苛まれる人が何故逆転していたのか、その理由も判らない。第一あの場面は小説が先なのか、私が覗き見た場面が先なのか、それさえも判らない。あの儀式が二人にとって、どのような意味を持ち、なぜそうしなければならなかったのか、私には判らない。
私の一か月の予定の摩周湖周辺のスケッチ旅行は、結局二か月に及んだ。理由はしごく簡単な事だった。どんな美しい風景の中に身を置いても、まるで薄いベールが総てを覆い尽くし、母と雨宮かおるの狂乱の姿が浮かび上がるのだ。未だに信じられない二人の行為。
その思想にも生活態度にも、貞節という姿を凛として持ち続けてきた母。明るく清らかに母を慕っていた雨宮かおる。二人の仲が単なる短歌を通じての主従関係を通り抜け、姉妹以上の、やがては心の奥に潜む総ての雑念を打ち砕く女としての、鬼性を曝け出した濃密な交わり。
母には今迄の抑圧されてきた運命を、そしてその方向に制御してきた自らの人生を打破しなければならない、という思いがあったのではなかろうか。母のそういった意思が母をしてあの行動を取らせたのか、あるいは「雨宮かおる」という存在がそうさせたのか。ならば雨宮かおるの方はどうなのだろう。私は雨宮かおるの、その生い立ちや私生活の事をまったく知らない。
ただ母の横に寄り添って、ふっくらと今にも内側から多弁の花咲くのを待つ蕾のように、あらゆる可能性を期待させる処女性を持った女性。私はふと、その可憐な姿の中に時折垣間見せる、無邪気な残忍性を思い出した。
いつもの各様の花を咲かす短歌の集まりの和やかな中、雨宮かおるがシャッをたくし上げ、下着をずらし右の下腹部を曝け出して、盲腸の手術痕を見せている。幼い時盲腸炎を患った彼女はそのまま放置された為中で膿が溜まり、その結果そこから外部にパイプを出して、長い間膿を抜き取っていた、と喜劇の主人公のように笑い、今度は帝王切開の痕を見せて、と嫌がる婦人に、目を燃え立つ黒赤色のバラの炎に変え、必要に迫っていた。
「では第四章『薔薇の聖櫃』は私のお母さんが一人で書いた物に間違いないのでしょうか」
彼女はそう言うと、バラの花で覆い尽くされた棺の絵が描かれた装丁の本を手に取った。
「時期的にも内容的にも間違いはないでしょう」
それは少女が亡くなった女主人公を慕い、自身のこれまでの短くも波乱に飛んだ人生を回顧し、二人の愛の結晶を思い起こし、やがて自らバラの枝で編んだ、揺り籠にも似た棺の中で死を迎える、という物だった。そしてその作品が世に出る事を見届けると、彼女は「雨宮かおる子」として、バラの枝で編んだ冠を頭に、母と同じようにバラの花びらで覆い尽くされた湯船の中で、その後を追ったのだ。
母の葬儀が終わり、その遺骨を抱いて家に戻った時、寄り添ってくれたのは雨宮かおる一人だった。私はその時精神的にも肉体的にも非常に疲れていた。すぐにでも横たわり眠りにつきたかった。それでいて脳の組織の一部が、幾千の蛇が絡み合い縺れあうようにうごめき回っていた。全身の筋肉は弛緩し、立つ事さえも一本の指先さえも動かす事に、全力を注ぎ込まなければならなかった。それでいて私の男としての部位は激しいまでの欲情を現わしていた。私の目は絶えず、黒ずくめ姿の雨宮かおるを追っていた。
警察は母の死を他殺の線から、真っ先に私に疑いを掛けた。検死の結果は多量の睡眠薬によるものだった。しかし生命保険、銀行の預金、不動産。家中が土足で踏み荒らされた。警察はバラ園の不審と思われる、地面の掘り起こし跡まで暴きにかかった。
勿論私はその時刻のアリバイも問われた。幸いその日その時間、母の代理で雨宮かおると、あるレセプションに出席していたのだ。母からその日の朝、突然気分が悪くかったから替わってくれ、と頼まれたのだ。私は雨宮かおるが同行するという、その事のみに有頂天となり同意した。母はあらかじめ息子の為に周到な用意をしてくれていたのだ。母が死んだ時刻、私は大勢の人と談笑し酒を酌み交わしていた。寄り添う雨宮かおるが、私達を一層印象づけた。その間に豊潤なバラの花びらが一枚一枚と散ったのだ。
やがて弁護士が母の遺言状を持って現れた。三分の一が雨宮かおるに、残りの総てを私に譲る事が書かれてあった。遺体の皮膚に残っていた傷痕も、検死官にはすぐに予測つくものだった。雨宮かおるは臆する事なく頷いた。
遺体は返され慌ただしい葬儀が始まった。まるでその事をずっと先から予感していたかのように、いやすでに準備されていたかのように、雨宮かおるが手際よく一切を仕切った。私はただ打ち沈んだ喪主を務めるだけでよかった。事実好きだった母を一瞬にして失った悲しみに、私は成す術を知らなかった。
葬儀が終わり、私は雨宮かおるに抱きかかえられるように、自分の部屋に辿りつくと、そのままベットの上に身を投げた。今迄堪えていた涙が痛い程に、疲れた目から流れ出た。
雨宮かおるが背中に身を密着させて、私を抱き髪を撫でた。背に当たる二つの膨らみが無言の慰めのように思えた。私は上半身を起こし体を入れ替えると、今度はその胸に顔を埋め泣いた。雨宮かおるは両手で私の頭を抱え、力一杯に押し当てた。そこはバラのエッセンスで溢れていた。母のものとも若い女性のものとも判別しがたい、混沌とした世界の中で、私はいつしか母に抱かれ母を抱いた夢を見ていた。
明け方目を醒ました私は、そこに一人でいる自分に狼狽し、雨宮かおるの姿を求めて階下に降り、書斎に入った。その一角の本棚の前に、雨宮かおるは三通の封筒を胸に抱き抱え、私の物音に振り向いた。
「この三冊の原稿、室井帝子先生の遺品として、頂いてもよろしいでしょうか」
嫌とは言わせない語尾の強さがあった。
「それは母と貴方が二人で書いた物」
「ええ、二人の魂の作り上げた物」
そう言うと一層強く胸に押し当てた。私は、どうぞ、と小さく答えた。
雨宮かおるは勝ち誇った笑顔を見せると、目を閉じ頭を下げた。そして足早に私の顔も見ず通り抜け、姿を消した。やがて立ち尽くす私の耳に、笑い声とも泣き声ともつかぬ声が、バラ園の方から聞こえてきた。私は窓辺に寄った。雨宮かおるは無防備にバラの繁みに体を寄せ、その喪服を棘先に引っ掛け破り、露出した肌に食い込ませ悶えていた。
「失礼ですが、今お幾つになられます」
「十七になります」
彼女は即座に答えた。年齢的に私の子ではない。不安と期待の入り混じった思いが急速に縮み、それでいて小さな安堵感も消滅した。尻の辺りにむず痒い感触が湧いた。
既に二十年余りの時が過ぎている事を忘れていた。それは今も咲き乱れるバラの花達に囲まれていた為かも知れない。私は庭の方に目をやった。婿養子と離婚され、その原因の元となった父母が死ぬと、母はそれまでの石と松と池で構成された日本庭園を潰し、バラの花で埋め尽した。
誰に対する反逆、決して遅くはない自立。今迄の角ばった「室井帝子」の文字を、仮名使いの優しい字体に変えたように、母の生き様は変わった。堅苦しいだけの付き合い関係は消え、肩先の丸くなった和やかな仲間が増えた。その最たる者が「雨宮かおる」だった。
あの晩私は母に抱かれる気持ちで雨宮かおるを抱いた。あの日バラの園に身を沈めるように姿を消した雨宮かおるのその後を、私は知らない。今私の前に座る雨宮礼は本当に雨宮かおるの子であろうか。もしそうだとすれば、その相手とは一体どのような男性だったのだろう。
「雨宮かおる子」として発表した作品、第一章「薔薇の夢想」第二章「薔薇の戯れ」第三章「薔薇の秘跡」その度ごとに私は買い求め、貪るように幾度も読み返した。母を慕い、雨宮かおるを思い、涙した。しかしその三作品は二人共有の物であった。当然母の死後の事は書かれていなかった。
第四章「薔薇の聖櫃」は雨宮かおるが一人で書いた物だった。それは二人の出会いの深層から始まっていた。今までの物理的精神的なしがらみからの離脱。そこに空いた穴を埋めるべく近寄った二人。埋めても埋め尽せぬ、逆に埋めようと思えば思うほど広がり深くなる穴。
「室井帝子」と「雨宮かおる」それぞれの業を背負い合い、その重さを支え合い、愛慾の織りなす行為で自身の、そして相手の穴に注ぎこみ埋め尽くそうと、もつれ苦しみ再び絡み付く。一時の快楽の狂乱に癒されぬ絶望、希望の光の失せた混沌の時間、癒されぬ空虚な心。
それらの総てから逃れるべく、死を選んだ室井帝子。死にきれず見知らぬ国を彷徨い、名も知らぬ男に抱かれ、自らの体を傷つけ心を苛んだ日々。そのはてに室井帝子の後を追った雨宮かおる。
「お母さんの事は?」
「何も知りません。私は赤子の頃から、親戚というオバサンに育てられました。でも本当に血の繋がりがあったかどうか。毎年途方もない額の養育費が送られていたそうです。私、父の顔も名前も知りません」
そう言って唇をしっかり結ぶと、私の方を直視した。なぜか私を非難しているような鋭さがあった。まるで雨宮かおる自身に何かを問われている気持ちに胸が萎縮した。私は耐え切れず視線を逃がした。
「お母さんから、この原稿が入った小包が届いた時、中の手紙を見て貴方様が本当の父親かと思いました」
私の狼狽振りが余程可笑しかったのか、彼女は妙に大人びた仕草で、さらに私の心を掻き乱すかのように、黒眼の小さな瞳を一回転させてみせた。そうしてバックから一通の紙片をテーブルの上に置いた。
それは手紙とは言えぬ、紙の薄いカレンダーの裏に書かれた物だった。恐らく四等分したものであろう、裂いた切り口が鋭利な刃物でない事は、その端のささくれ立った感触で理解出来た。どこの国のいつの年代の物か判別は出来なかった。
―礼ちゃん、ごめんなさい。この原稿を持って、後に書いてある住所の室井という人を訪ねて下さい。礼ちゃんの事を守ってくれる人です。―
第四章「薔薇の聖櫃」を出版した後、「雨宮かおる子」は「雨宮かおる」として秘かに世を去りたかったのかも知れない。しかし、恐らくは出版社辺りがリークしたのであろう、テレビのワイドショーや週刊誌が世間を煽り立てた。
今まで姿を見せず、過去を消していた謎の女流作家は好奇の目の良き対象だった。ビルの間を抜ける風に吹き寄せられた紙屑の山を引っ繰り返し、海辺に打ち上げられた異臭を放つ、異国のラベルの貼られたゴミを漁った。
雨宮かおる子は、時にはイタリアの大富豪の情婦であった。イベリア半島を彷徨う放浪の歌姫だった。アンデス山脈の山々を、不治の病に耐えながらロバを共とする、哀れな女であった。そうかと思えばニューヨークを拠点とし、世界を飛び回る実業家となっていた。
どれもが興味本位にでっち上られた虚像であり、第四章からなる薔薇シリーズの本質を探るものではなかった。ましてや「室井帝子」と「雨宮かおる」の心の襞に喰い込んだバラの棘の痛みなど、知ろうともしなかった。
私は「礼」に宛てた雨宮かおるの手紙から視線を外した。ふと今前に座っているのが「礼」ではなく「雨宮かおる」に見えた。
―礼ちゃんの事を守ってくれる人です―
彼女は薄くバラの花粉を塗したように、微笑んでいた。私は立ち上がると、礼をバラ園へと誘った。好き放題に盛り上がった繁みの中に、それでも花は咲き誇っていた。
地面に小石を引き詰め、周遊の為に作った小道の隙間からは雑草が生え、なによりも伸びた枝先が、その行く手を遮っていた。礼はつぶやいた。
「これから、手入れが大変ね」
私は答えた。
「ええ。私も手伝いますよ」
礼は振り向むきニッコリと頷くと、やにわに腰を屈め、その密集の下を潜って中に分け入った。私も思わずその後に続いた。バラの棘が服に絡み付き、肌を刺した。
いつしか前を行く礼は無毛の子ネズミに姿を変え、その桃色の柔らかく艶やかな肌を輝かせて、幹の間を擦り抜ける。私は背を丸め膝を折り、両手で?き分け這いずるように、円やかな臀部を見つめ、追う。礼の誘いこむ含み笑い、バラの花々の嘲笑う声。天上にさしかかった夏の太陽の熱に蒸し返る葉群の中。
バラの棘は衣服を裂き破り、いつしか千切れて私も裸となり、全身に血を流す。礼は時折その動きを止め、媚を含んだ表情で振り向き、私を誘う。ようやく近付き捕まえようと手を伸ばすと、礼はその手を払いのけ、時にはその指さきに噛み付く。その裸身を抱こうとすると爪を立て、私の肌をさらに深く傷つけ身を翻す。
花はほくそ笑み秘かな笑い声をたて、蔓は私の手足にまつわり付いて、追いつかぬ焦る気持ちを更にいたぶる。汗と血と荒ぶる気魄の中、私はついに礼の傷ひとつないやわ肌に触れる。礼は私をその薄い胸に迎へ、頭を掻き抱く。私は燃え立つ赤いバラの瞳で、上目使いに礼の唇を懇願する。
優しい唇と唇の触れあいの中、私は舌先で微かに覗く黄色い雄蕊のような、小さな歯並びを割る。礼は舌を絡め奥へと誘い込み、喰わえ込む。
私の痛みは母の痛み。同時に礼の中に雨宮かおるを見る。
二人は花びらに埋もれ、葉影が二人を隠し、色彩豊かな花々が二人を祝福の妙香で包み込む。私はその中で静かに横たわる。礼がバラの一枝を打ち下す。
今「薔薇の聖櫃」の蓋が再び開けられた。
完