(1)
私は港のある伏木から帰って来ました。伏木には、黒く塗った車輌がいくつもつながれ、茶色の線路の上にありました。夏で石は焼けていました。私は一人で帰って来、私の頭の上には麦わら帽子があり、それで私の顔は黒く陰になっていました。私は帰って来ましたが、その時大きな父の顔に会いました。私達はすれ違ったのです。父の眼は大きくて白く、私の小さな顔の片側だけを見てぱっと通り過ぎたのです。ぱっと通り過ぎたのは、彼が自転車に乗っていたからで、急に現われ、私の眼をおさえ込むように通り過ぎて行ったのです。自分の小さな眼が赤くなり充血したのだと感じました。
父はあの赤い社宅の並ぶ、日曽の社宅の方へ行ったのです。私は夏の道の上にい、能町に来ているのです。日曽の社宅とは反対の左側には、さっきの黒い車輌の列の変わりに、しかしそれとよく似た、ただぼんやりとした灰色の、黒い煙をもくもくと出している能町の工場が壁の組み合わせのようにあるのです。そして、やはり、道の上には茶色にやけた線路が時々、草の生えた敷石の上にあるのです。しかし、それは、汽車ではなく電車道なのです。
父が戻ってきました。父の顔は茶色く黒いのですが、眼と歯だけ白く、それが私にくらいつくように、そして鼻が高く頬骨が高い位置で張っているのです。
「お前は、じいちゃんに会ったのか。」
「じいちゃん……?」
じいちゃんは、父より背が低いが、父より肩巾の広い背中をした人なのです。父はじいちゃんに会うことが悪いことでもあるかのようにそう言ったのでした。
じいちゃんは、そう言えば、いつも白い歯を、父のように大きくはないのですが、小ちゃな白い歯をいくつも見せ、眼を優しく笑わせ、太った顔をしていた人でした。よく私をデパートや博覧会や、こわい顔をした入道様がいるお寺に連れ行ったりし、私も自転車の後ろにしっかりとつながりついて行ったものでした。
「じいちゃん……。」
私はただおびえたように、私はこう言いました。
「そんならな。」
私のおびえた様子を見て、私の返事を得たかのようにくるりと自転車にまたがり、父は自転車をこぎ、私は父をじっと見ていました。黒い自転車に乗ったその背は、黒い背中であるかのように、やはりじっと私を押さえつけているのです。
私は祖父と港を見ていました。ここは伏木の港で、後ろには、大きな灰色の銀色のタンクがいくつもあります。船がゆっくりと走って行きます。青い長い旗のように港の出口を向こうから、又、向こうへ遠く走って行くのです。私達の右側にはこれも灰色の重い貨物船があります。それは重くとまり、誰もいず、ただ夏の陽が明るいのです。
祖父はじっと沖を見ています。又、例の笑いをもらしています。本当にそうしたように、左側の上の歯だけ二本と半分だけ見えるのです。ひょっとしたらさっきまで、祖父はその笑い顔で、そして背の低い太った体で、沖に向かって石ころを投げていたのかも知れません。そして、その石は本当の石ころではなく、港の上に落ちていたセメントのかけらだったのかも知れないのです。
私たちは八十八ケ所へ行きました。それは港から少し行った所にあるのですが、そして、白い夏の中に、灰色の石が、石の山のようにごろごろ転っている所なのですが、私には、それは瑞龍寺の暗い廻廊の壁であったように思えてならないのです。その暗い廻廊には地獄、極楽の絵がかいてあり、赤い手を伸ばし、鬼や、首をつかまれ、骨の上には、ほんの薄い肌色が着色されているだけの、髪のボサボサの男というよりも、民や、そうして、燃え上がる炎、しかし、それらが全て何か平和というその中にかかれているような絵、そのような絵が何枚も何枚もずっと描かれ続けている暗い廻廊、私は祖父の上着のすそをつかみ、何か見ることが出来ないような、それでいて逃げることが出来ないような、顔の半分を絵からさけ、祖父のズボンを上着の間から、しかし実際この方が何十倍も恐しいずっと続く廊下の冷々とした暗闇、それを眺め、それでいながら、片方の眼は、絵の中の炎の為に黄色くなってしまったような眼で、疲れた眼で、じっと逃げまどう、手足の長い、胴の細い肌色の人々を見ているのでした。祖父は口を閉じ、暗闇でも見ているかのように、その絵を黙って見、そして一つ一つ、ゆっくり、驚く程ゆっくりと横に進んでいくのです。しかし、実際は祖父は肌色の服を着、夏の白い日差しの中に翳り、灰色の石のかたまりの一つの中の字でも読んでいるのです。そして、私はそれを祖父の姿と眺めて、ただ夏の日の中に立ち、自分の顔の横に、自分の横顔のように、鼻の高い眼の鋭い、白い眼が光っている、父の暗い顔を感じているのでした。
父はまっすぐにハンマーを打ち下ろします。父の横顔はまっ黒で、眼だけが白く、鼻が夜の闇にくっきりと高く、それで、ハンマーを力一杯うちすえるのです。父は大きな怒りのように、大きな怒りのような顔をし、まっすぐに力一杯打ち下ろすのです。
カーン、カーン、カーン、カーン、悲しいように金床が響きます。カーン、カーン、カーン、カーン、悲しい悲鳴のように金床が響きます。夜で、父だけが、父の腕だけが真っ黒な夜のかたまりで、力のかたまりで、それをふり降ろし、力を入れてふり降ろし、他はまっ暗で、父の眼だけがまっ白く光り、力を入れ、こぶしを入れ、カーン、カーン、カーン、カーン、父は怒りのようで。
私の家は、川のほとりにあり、夜でも、川の流れが、千保川の流れがさらさらと聞こえてくるのでした。
父は手を石けんで洗っていました。石けんとは言っても、白い石けんではなく、黄色をしたおがくずのような石けんです。それで、手を、互の手で石けんと筋くれだち、青い血管が走り、血管がはれ上がったような手を手で互にこすりつけるように、おさえつけるように、ごしごし洗っているのです。夜で先程まで夕焼けだった父の背中や、千保川は、今は暗く、まっ暗で、ただ父の使う水の音がざあざあ、そして、少し離れた家の中のあかりが二色玉のようにぼんやりと暖かいのです。
父の眼は夜の中で白く輝いていました。
父の頬は父の背はそして、父の眼は夕焼けの中で赤く光っていました。雪が降っていました。夕焼けの中に雪が降っていました。西の空はまっ赤で、そして、真上の空も、青く少し暗くなりかけていましたが、まだ青く、そんな空から雪がどこともなく、どこからともなく、まるで茶色の工場の軒から降って来るように一つ一つ、次から次と、降って来るのでした。父は手を洗っていました。手をおさえつけるように、黄色の石けんで。
「なあ、寒くなったな。」
父はこう言ったのでした。しかし、私は、余りにも小さくて、そしてただ父を黒い大きな眼でじっと、ただじっと見ているだけで、そして心の中では「天気雪だよ。」と言おうと思っていたのですが、余りにも小さく、ただじっと見ているだけで、私は何も言わなかったのです。
(2)
父がこんなに金を持っているとは知らなかった。
夕陽の日で、父はゆっくりと自転車をこぎ、博労町の小学校から坂を登り、ゆっくりゆっくり坂を登り、私は自転車の後ろにのっていた。先週、自転車の後輪に足をはさんで、足のこうから沢山の血が出た。赤ちんをぬって、包帯をしたら、包帯も赤くなっていた。今、足は赤色の中に緑茶色の線が二本残っている。
「足をはさむなよ。」
父はそう言って、ゆっくりゆっくり坂を登った。大きな黒い自転車だった。坂上のお菓子屋の前で車をとめて、私をおろしながら、
「何が欲しい。」
夕陽の日だった。雪がちらちら降っていた。父は私を自転車にのせ、博労町の小学校から、ゆっくり坂を登り、ゆっくりゆっくり坂を登り、私は自転車の後ろにいた。私が怪我をしたように思っていたのは雪が降っていたせいで、足が冷たく、それで包帯が白かったからなのだ。
「何が欲しい。」
父は自転車をとめ、坂の上の店の前で私を下ろした。
「何が欲しい。」
私は父の顔とじっと見ていたが、
「アハハハ、じゃあ、これにしよう。」
父は、ウイスキーボンボンを二つ買って呉れた。私は父がこんなに金を持っているとは知らなかった。それは銀紙に包まれていて、祖父も買って呉れたことがなく、母も病院から、もらって来たことがなく、私はただ父が全然違っているんだとだけ思った。それは父の後ろ姿が思わせている言葉だったのだ。
「ちょっとからいか。」
私は一つ食べ、チョコレートの奥にもっと甘ずっぱいものがあり、その甘さに感動していた。
父は私を自転車に乗せ、ゆっくりと大きくまわり道をし、雪がだんだん降って来、私は寒く、店で「何が欲しい」と聴かれた時は、何も知っているものがなかったからで、「ちょっとからいか」と聞かれた時は、口の中にチョコレートが入っていたのだと思おうとしていた。
「お前は俺の子さ。俺の子だよ。」
それは完全に雪が降った日でした。父はそれでも、私を自転車に乗せ、暗くなりかけた夕暮れの街を博労町の小学校から坂を登り、ゆっくりゆっくりと、いや、雪の為に重くなった自転車でゆっくりゆっくりと、重く重く登り、ようやく坂の上にたどりつき、
「何か欲しいか。」
と言いました。それは尾山堂の前で、私の手を引いてひっぱり、「何が欲しい」と言いました。私は何か言おうとしましたが、色々な銀紙が目に入るばかりで、ただ父の顔をじっと見ているばかりでした。
「じゃあ、これにしろ、これ下さい。」
父はそう言って、何か袋の中に入れてもらい、ポケットから財布を出し、なんとたくさんの金を持っているのかと驚いている私を引っぱり外に出、私にその袋をくれました。それはチョコレートボンボンでした。
「ウイスキーが入っているから、気をつけろ。からいぞ」
父はそう言ってまたゆっくりとこぎ出しました。
「かあちゃんいなくて淋しいか。しかし、お前は俺の子だからな。」
「かあちゃん、病院や。」
祖父はそう言いました。祖父はそう言いながら、自転車をゆっくりとこぎました。私は自転車の前に乗り、私の腰掛けには、厚い坐ぶとんが引かれてありました。天気のいい日で、明るくて、全体の光景が砂のように白く、実際私たちは川辺に千保川の川辺に沿い白い砂を見ながらゆっくりと進んでいたのです。
「お前は俺の子だからな。お前は俺の子なんだよ。」
「男の子は母親に似た方が果報なのにね。」
それはやはり夜だったのだ。夜の中に父は立っていて、父はじっと私を見ていたのです。高い所に父の鋭い光る眼があり、黙って私を見下ろしていたのです。私の手にはチョコレートボンボンがあり、私は暗闇の中で暗闇でしかない眼で、私は自分の手を見、それから父の、父の白い鋭い眼を泣きそうになって、自分の眼の中に、自分の眼の横に、何か赤色のようなものを感じながら、じっと、つばをのみこむように、じっと、じっと。
「とうちゃんは、お金たくさん持ってる人やね。なーん知らんだ。」
私はそう言おうとしていたのかも知れません。でも私はただ父の顔をじっと見てい、そして、そう思った時には、ちょっと又、チョコレートボンボンと私の手の上の、その銀紙の包みと見ていたのです。
(3)
私達は屋上から手をふっていました。灰色の空の下で、灰色のセメントで、セメントは乾いていました。私の横にいるのは、妹で、小さい子供で、桃色の服を着ているのでした。そして、それは病院の屋上で、やはり私達の足の下には母がい、母が働いて…………私達は父を待っているのです。父がこの屋上に上がって来、この下の暗い病院の中を通って、上がって、そしてやってくるのを待っているのです。父は階段を上がっているのです。
母はやはり病気でした。
母はやはり病気でした。看護婦だったというのは昔の話で、嘘で、父が上がって来る階段の下の、あの白い服ではなく、あの階段の下の、階段の、全て暗い父の眼のような、父の痩せた頬のような、そのような色の服を着て、ベッドの上にただ一人坐っているのです。