内角秀人
私の怒りは頂点に達していた。薄暗い部屋の中、父は布団にくるまって、意地汚く寝ていた。口をポカンと開けている。私はその姿を見下ろす格好で立っていた。部屋には私たち以外、誰もいない。やがて私は寝ている父の側にそっと近寄って腰を下ろし、しばらくじっと父の寝顔を見つめた。父は、時折咳をする。寝返りを打つ。あらぬ寝言を呟く。その度目を覚ますのではないかと私は冷や冷やした。時刻は夕方の五時過ぎ。寝るには早い時間だ。だが、父はいつもこの時刻は寝ていた。夜も寝る。朝も昼も寝ていることが多い。起きているのは食事を摂る時と家の近所を徘徊する時ぐらいだけと言ってよい。別に病で臥せっているというわけではない。身体はいたって健康のようだ。
私は見つめた。掛布団から突き出ている首から上の父の容貌を。年取ったな、と思う。白くなった頭髪、皴と染みだらけの皮膚、歯が抜けた口元、痩せこけた頬。じっくり見るのはこれで最後にしよう。私は自分に言い聞かせた。唾を飲み込む。辺りを見渡した。何か手頃なものはないだろうか。父が寝ている蒲団の近くにあるのは、ティッシュペーパー、ゴミ箱、テレビのリモコン、目覚まし時計、脱ぎ散らかした衣類。布団からはみ出している電気行火(あんか)。
これか。私は電気行火を自分の元に引き寄せた。コンセントはつながっていない。強度を確かめるため、そのコード部分を引っ張ったり折り曲げたりした。これなら大丈夫だ。間違いなくやれる。私は一つ大きく深呼吸してから、コードを寝ている父の首にかけようとした。
私の父、小菅勇吉は昭和の初め頃に富山市郊外の農家に生まれた。当時としては珍しくない七人兄弟の、四男坊だった。生まれながらして、厳しい生存競争を強いられてきたようだ。親から継ぐべき財産などなく、手塩にかけて育てられることもなかった。欲しいものは全部自力で手に入れなければならなかった。機械いじりが好きで、工業高校に進学、大学受験に挑むも失敗、卒業後は地元の自動車部品を製造する会社の工員となって働いた。母と知り合って結婚したのは二十五歳の時。その頃昼間は工員として働きながら、夜は富山市内の大規模時計店の店主から手ほどきを受け、時計の修理の実習に勤しんでいた。自分の店を持つことが夢だった。時計店だったら物品の販売と、修理との両方で儲けることができると踏んだのだ。二年後、結婚式も挙げずに母と二人で質素倹約して貯めたなけなしのお金を基に、富山市郊外の貸店舗に住居兼用の小さな時計店を開店することができた。アパートの一階部分が店で、住居は台所とトイレが共同で、風呂無しの八畳間だった。その同じ年、私が生まれた。
当初は店の売り上げは順調だったが、徐々に下降線をたどっていった。いくら頑張っても、個人商店では大型店には敵わなかった。商品には流行り廃りがある。技術の進歩も目覚ましいものがあった。それらについて行くのがやっとだった。それでも十年目の夏、町の外れに、自前の一軒家に移転することができた。他の住人に気兼ねなく台所やトイレを使うことができるようになったのは良かった。自家風呂は相変わらず無い家だった。以来、その地で細々と商売を続けてきた。
私が父に対してよからぬ感情を持ったのは一体いつ頃からだろうか。記憶をたどってみると、高校三年生の初夏にたどり着いた。十七歳。私は多感な年齢だった。校内の定期テストで、私はクラスで一番点数が良かった。学年順位でも十三番という好成績であった。頑張った甲斐があった。このテストの成績を基に三者面談を行ない、進路指導をすると担任の教師は言った。私が通っていた高校は地域で中くらいの進学校で、毎年三十名くらいが国公立大学に合格していた。私もそうなることを願っていた。ただ、そんなことよりも、私は単純に嬉しかったのだ。学校に通い出してから、クラスで一番という成績など修めたことがなかった。人に褒めてもらいたかった。特に、父に。私は長男として生まれ、両親にそれは大事に育てられた。それまでがっかりさせる成績ばかりであったが、ようやく期待に応えることができたのだ。誇らしい気持ちだった。三者面談には父に来てもらい、大いに褒め称えてもらいたい。と思っていた。ところが当日、待てど暮らせど父は来ない。家に電話してみたら、母が父はもうとっくに家を出ていると言う。おかしい。途中事故にでもあったのかと心配すらしていた。結局、その日父は来なかった。深夜、帰宅した父を問い詰めてみると、何とパチンコに行っていたと言うではないか。呆れて物が言えなかった。自分の息子の進路が気がかりではないのか。なぜ今日この日に遊興に走ったのか。気が知れなかった。この時、私は生まれて初めて、父に対して何とも言いようのないどす黒い感情を抱いた。
その頃から父は少しずつおかしくなっていった。それまでは父、母、私、妹の一家四人、仲睦まじい家族だった。ところが、それまで真面目だった父が急に働かなくなった。暇を見てはパチンコ、麻雀、スナック通いに興じ、挙句の果ては朝帰りを繰り返すようになった。原因が何であるか私には分からなかった。父は何も言わない。黙って家を出て行くのみである。ただでさえ貧窮していた我が家はより厳しい状況に置かれた。母が早朝新聞配達のアルバイトを始めた。その年の八月、店の売り上げがどん底まで落ち、二度目の不渡り手形を出した。すぐに銀行と取引問屋の担当者がやって来て、帳面を洗い直し、家財道具を物色し始めた。この時は母の人徳や親戚の力のおかげで、倒産や一家離散といった最悪の事態は免れたが、父はさほど反省した様子を示さず、それ以降も仕事に精を出すこともなく遊び歩いていた。私は学業に身が入らなくなり、国公立大学の入試に失敗し、東京の私大に行くことになった。学費や生活費をちゃんと払ってくれるのか心配だった。そのことについて事前に父に尋ねると、「大丈夫、大丈夫」と茶化して答えるのみだった。私が大学入試をパスするとは夢にも思っていない様子だった。が、いざ私の東京行きが決まると、困った顔をして、どこも悪くないのに総合病院に入院する始末だった。病院のベッドに横たわる父。私はその姿が惨めに思えて仕方なかった。ちょうど親離れの時期に差し掛かっていたこともあり、私は大学の学費と東京での生活費は自分で何とかするしかないと思った。
「新聞配達しながら、大学へ行く。新聞奨学生になる」
私はそう父に言った。それは私にしてみれば、親離れを告げる一大宣言のつもりだった。父は口では私の申し出に反対を唱えていたが、余計な出費を抑えることができ、内心ほくそ笑んでいたことだろうと思う。この時も私は自分の心の中にどす黒い感情が芽生えたのを自覚した。父のような人間にはなりたくない。父を人生の反面教師として捉えていた。
「お父さんはあなたが巣立っていくのが寂しかったのよ、きっと」
後に母は語ってくれた。ただ、この時私は自分の未来は自分で切り拓くしかない、という一種悲愴な決意を胸の内に秘めていた。そうする他、生きる方法を知らなかった。
働きながら学ぶということは想像以上に厳しく険しい道だった。大学の入学金と一年目の学費を新聞社から借り受けた私は、品川区の新聞専売所に入所した。住まいは家賃一万五千円の古アパートだった。四畳半、トイレと台所が共同で、勿論風呂などなかった。専売所での仕事は朝夕三百五十軒ほどの配達だけではなかった。集金、拡張、チラシの折り込み作業、顧客管理。勉強はその合間の僅かな時間にしなければならなかった。大学の学友と遊んでいる暇などなかった。一緒に入所した仲間は、一人、また一人と辞めていった。私は耐えて、頑張った。父に宣言した手前、頑張るしかなかった。幸い、専売所所長夫妻が二人とも好人物だったので、温かいバックアップのもと、無事四年間勤め上げることができた。大学も留年することなく、卒業することができた。大学が長期休暇の際には、自動車免許を取ることもできた。感無量だった。ただ、卒業後の就職が決まっていなかった。私は教師になりたかった。大学四年生の夏、東京と富山の公立教職員採用試験を受けたが、両方とも不合格だった。他の職業は頭になかった。専売所の所長から卒業後も専業者として残ってくれないかとの誘いを受けたが、丁重にお断りした。もう一年浪人して採用試験を受けるつもりでいた。朝ゆっくり寝ていられる生活がしたかった。
この時、父が出しゃばってきた。大学卒業後の進路について、いい話があると言う。それはウチの店がお世話になっている時計宝飾品の卸会社に就職することだった。その会社で四、五年修業し、ゆくゆくは家業を継げばいいと言った。私は全くその気がなかった。私は私の道を往きたかった。長男とはいえ、家を背負わされるのは御免だった。負の遺産を継ぐようなものだ。時計店を経営しています、というと、外見的には立派なようだが、年中赤字で借金だらけの店で、店舗兼用の住居部分は木造トタン屋根の築五十年近い家屋だった。同居していた頃、私は屋根裏部屋で生活していた。東京の古アパートと何ら変わりがなかった。いや、都会で生活できる利便性を考えると、田舎より暮らしやすかった。家を改築したくてもその資金がない。それだけ、店の売り上げは低調だった。貧すれば鈍す。町の小さな小売店であるウチは好景気の波に乗り遅れ、十年前の宣伝ポスターを店先に飾っている為体で、世間から忘れ去られていた存在だった。そのような有様だったから、家業を継ぐという考えは毛頭なかった。
それでも父は世話になっている会社だから大学を卒業した挨拶だけでもしてくれというものだから、不承不承その会社の東京営業本部に足を向けた。大学の卒業式を終えた三日後だった。
会社は御徒町にあった。全国展開している業界最大手の会社で、本社は大阪にあった。香港にも支店を設けていた。緊張した面持ちで営業本部長と面談すると、どこでどうなったのか分からないが、四月一日からこの会社で働くことになっていた。異を唱えることはできなかった。相手は海千山千の大人だったから、見事に丸め込まれた。父に電話で報告すると、喜んでいた。もしかしたら、裏で話がついていたのかもしれなかった。
御徒町まで通いやすい千葉県市川市に安アパートを借りた私の、サラリーマン生活が始まった。スーツ着て、ネクタイ締めて、髪は七三分け。配属されたのは東京営業本部の宝飾営業部二課。東京近郊の量販店やホームセンターに安値で宝飾品を販売する部署だった。私は時計店の息子のくせに宝飾の知識など皆無に等しかったので、商品について一から勉強しなければならなかった。まずは見習い。先輩社員のカバン持ちが私の定位置だった。時計や宝飾品をぎっしり詰め込んだカバンは肩が抜けそうになるほど重かった。
会社の社風は大会社特有ののんびりとしたものがあった。営業会社だから数字には厳しかったが、優良企業とのルート営業が主だったので、毎月毎年の数字はある程度確保されていた。それほどシャカリキにならなくてもノルマは達成できていた。社員の上下関係もそれほど喧しくなく、人付き合いで殺伐とした雰囲気になることもなかった。皆仲が良かった。顧客の息子ということで、私は人以上に手厚くもてなされた。居心地のいい会社だった
入社三年目、当時の流通業界最大手の量販店が千葉県内に六店舗開店することになった。そのうちの四店舗を私が担当することになった。張り切っていた。任された君津、木更津、稲毛海岸、八千代の各店舗を巡回営業した。中でも八千代に足繁く通った。四店舗中売り上げがトップで最激戦区であったこともあるが、私は八千代店の売り場担当女性店員と恋に落ちたからだ。
彼女の名前は高岸ひとみ。名前の通り瞳がクリクリと大きく魅力的な女性だった。私と同じ年で、地元八千代出身だった。お互いカラオケ好きということで意気投合した。八千代に巡回することが楽しかった。知り合って半年、プライベートでも逢うようになり、ステディな関係になった。この女と結婚したいと思った。八千代の彼女の実家では歓迎された。温かい家庭だった。私も同じような家庭を築きたいと思った。
問題はウチの親だった。母は喜んでくれると思うが、果たして父が何と言うか。二月の閑散期、ひとみを伴って、スキー旅行の傍ら、富山の実家に里帰りをした。お互いに休暇を取っていた。
「この人と結婚する」
私は両親にひとみを紹介した。部屋の中には妹の舞もいた。
そうかい、と父は小さく呟いた。
「それは喜ばしいことだけど、忠弘、あんた、富山にはいつ帰ってくるがけ?」
母は私に尋ねた。
「富山には帰らない。千葉で生活する」
新聞奨学生として上京する際、親とは訣別したつもりだった。その想いを改めてここで宣言した。
「あら、そう…」
母は残念そうに目を伏せた。
「まあ、忠弘が駄目でも、舞がいるからな」
父はそう言い捨て、ソッポを向いた。妹は何も言わなかった。
その夜、一緒に鍋を囲んだが、どことなくぎこちなくて、さほど和やかでない時間を過ごした。実家では泊まれないので私とひとみは近くの旅館に宿泊した。次の日妹の車でスキーに行き、その後私とひとみはそのまま千葉へ帰った。翌月から私たちは同棲生活に入った。ひとみは仕事を辞めた。五月のゴールデンウィークに、八千代市内のホテルで挙式した。父と母も参列したが、特に何も言わなかった。何も言わせたくなかった。これは私が自分の努力で掴み取った幸せだ。誰にも文句を言わせたくなかった。翌年五月、娘の美咲が生まれた。今から思えば、あの時が私の人生の絶頂期だったようだ。
美咲がようやく掴まり立ちができるようになった頃だった。父が突然私たちの住んでいた八千代市の公団アパートに訪ねて来た。話があると言う。嫌な予感がした。二人きりになりたくなかった。ひとみも立会いのもと、三人で話がしたかった。ところが、ひとみが夕食の支度で席を立っている時のことだった。居間で父と二人きりになってしまった。
「舞が結婚する。大阪に行くらしい」
父が切り出した。その話は兄として妹から相談を受けていた。相手は優良会社に勤める同じ年の男で、悪い話ではなかった。
「聞いている」
私はぶっきらぼうに言った。
「…それで、おまえに帰って来てもらいたい」
冗談じゃない。誰があんな家に帰るか。
「嫌だ。断わる」
「おまえ、長男だろ」
父が言い放つ。
都合のいい時だけ持ち出さないで欲しい。私は跡継ぎとしての待遇を受けたか。受けてはいない。なぜ私は新聞配達しながら大学に通わなければならなかったのだ。あの頃辛くて、何度涙で枕を濡らしたことか。貴重な青春時代を労苦で費やさなければならなかった。あの時間を返して欲しい。
「俺は帰らない。帰ってどうする? 今のご時世、田舎では仕事はない。住む家もない。一家三人路頭に迷えというのか」
私は言い返した。
「帰って、時計屋をやればいい」
父は尚も言う。
「時計屋の稼ぎだけではやっていけないだろうが。美咲もまだまだ手がかかるから、ひとみは仕事に就くことができない。どうするんだ?」
分からず屋め! 私は憤怒した。父の反応を待った。そして次に父が言った言葉、それが今でも耳にこびりついて離れない。
「離婚して、おまえ一人で帰ってこい」
「!」
思わず、絶句してしまった。言葉を継ぐことができなかった。父の顔をまじまじと見つめた。さほど悪びれた様子でもない。常日頃からこんなことを考えているのだ、この人は! 私は自分がこのような男の息子だと思うと、恥ずかしい気になった。
「…帰らない…」
私は声のトーンを落として、小さく言った。その後は沈黙が続いた。ひとみが食事を運んできた。味気ない夕飯となった。父と別居して約十年、忘れかけていたどす黒い感情が久々に蘇ってきた。
その頃、安穏としていた私が勤める会社も不況の煽りを受ける出来事が相次いでいた。業績が前年割れして、悪化の途を辿っていた。ある日、私は営業本部長室に呼ばれた。
「小菅君、君はウチの会社に来て、何年になるかね?」
応接セットの椅子に腰掛けると、いきなり営業本部長に言われた。
「…五年です」
「そうか。もうそんなになるか…」
何を言われるのだろう。私は緊張した。
「もう十分に修業は積んだだろう。きみは勤務態度が真面目だし、頑張り屋だ。後は富山の実家に帰って、その手腕を発揮してくれたまえ」
え…。これって、体(てい)のいいリストラ宣告ではないか。
「ちょっと待って下さい。私はこの会社を辞めたくありません。一生この会社で働きたいと思っています。まだまだ頑張りたいです」
「これは私の一存ではない。君のお父さんも望んでおられることだ。本社の社長も了承している決定事項なんだぞ」
「そんな…」
そこまで言われても引き下がれなかった。だが、何を言っても無駄だった。その日付で、私の退社が決まってしまった。業務の引継ぎもしなくてよいとのことだった。それほど取引案件が減っていたことは事実だった。
重い足取りで家路に着いた。暗い表情の私を見て、ひとみはピンと来るものがあったようだ。その日は何も言わなかったが、何日か経って、ひとみは言った。
「私は富山へは行きません。どうしても帰ると言うのであれば、離婚します。美咲は私が立派に育ててみせます」
ひとみにしてみれば、誰一人知り合いのいない田舎に行くのは心細かったのだろう。
私も富山へは帰りたくなかった。が、クビになった会社から連絡がいったのか、父からいつ帰るのか、と催促され、さらに本社からも富山に帰って家業を継がないと、契約不履行で違約金を払ってもらうとの旨の封書が届いたりした。
契約不履行…。何のことだ。そんな話、聞いてない。どうやら私が入社する際に父と会社が約束を交わしたらしい。
メラメラと父に対する怒りが込み上げてきた。どこまで人の人生の足を引っ張れば気が済むのか。この時、どす黒い感情がより大きく強くなっていることに気づいた。それは私の心の中でしっかりと巣食っていた。
どうやら私は帰郷せざるを得ない人間だった。ひとみは最後までついて行くとは言わなかった。ひとみの実家も一人娘を乳飲み児連れで県外に出したくないようだった。両家の思惑の板挟みになり、私は苦しんだ。お互いの関係が険悪なものになった。それにより、私は体調を崩し、入院することになった。胃潰瘍だった。結果、協議離婚が成立した。親権は向こうが持つことになった。私はまだ痛む腹を抱えながら、泣く泣く一人で富山に帰った。上京して、ちょうど十年経っていた。この間の私は、どす黒い感情をより一層増幅させただけのようだった。
私は父を憎んでいた。その気持ちを持ち続けていた。富山に帰って再び同居するようになって、はっきり認識した。身内の人間を憎悪することは愚かなことだ。自分で自分の首を絞めるようなものだ、と人は言う。私も何とか負の感情を打ち消そうと努力してみた。自分を改善しようと試みたりした。だが、無駄だった。凶暴な獣のようになったその感情は、私の心を侵食していた。
帰郷して二十年が経った。私は再婚せず、またひとみとヨリを戻すこともせず、両親と一緒に細々と時計店を営んできた。父は相変わらずだった。私は自分の気持ちを何とか誤魔化しながら生きてきた。これまで何もかも捨て去り、逃げ出したくなることが何度もあった。時計屋以外の道を模索したこともあった。しかし、必ず家に戻らなければならない羽目になった。それが私の宿業のようだった。私は父を否定したかった。自然と父方の親戚との付き合いも避けるようになっていた。
二年前、母が世を去った。時を同じくして、父も壊れかけてきていた。数年前から兆候があったのだが、この年医者から認知症だと宣告された。絶望的な気持ちになった。父を介護するには費用がかかる。それまでは母が何とか年金と貯金でやりくりしていた。その母が先に他界してしまった現在、父の年金と私の時計店での稼ぎだけでは生活するのに金額が全然足りなかった。私が年金をもらうのはまだまだ先の話だ。借金が嵩んでいく。
母がまだ存命していた時、生命保険会社の認知症保険に入ろうとしたことがあった。父の様態を見るに、そうすべきであった。が、
「ワシを病人扱いするのか!」
と、父は署名を求められたものの拒絶して、契約が不成立になってしまった。あの時素直に入っておれば、低価格で介護ヘルパーを頼めたのだ。そのツケが回ってきていた。父一人子一人の家庭で、私は仕事をしなければならない。家事もこなさねばならない。父の面倒ばかり看ていられない。介護施設に入院を勧められ入ったはいいが、一週間も経たずに父は我が儘言って問題を起こし、強制退院になった経緯もあった。
父は八十歳を目前にしながら、よく寝るから、ボケていることを除けば、すこぶる元気だ。朝は五時に起きる。起きて、すく朝飯を食べる。いつも決まって、卵かけご飯とみそ汁。私は眠たいのに、付き合って起きて朝食を作らなければならない。食べた後、父は町内を徘徊する。一度気掛かりで、後を尾けたことがあった。誰彼構わず挨拶していた。町内を一周してから帰宅し、しばらくしてまた寝る。昼頃起きて、昼飯を食べて、また徘徊。腹いっぱい食べているくせの、「腹減った、腹減った」と繰り返している。三時頃になると、おやつをせがむ。与えないと、駄々をこねる。暴れ出す。なまじ知恵があるだけに、始末に負えない。赤子の方がよっぽどマシだ。夕方にかけてまた寝て、夕飯を食べるために起きる。それから銭湯に連れて行く。帰宅後、本格的に就寝。というのが一日の大体のスケジュールだ。夜中に突然起きて、「腹減った」と叫ぶ時もある。これがエンドレスで一年三百六十五日続く。地獄だ。父が寝ている時はいいが、その間に私にはやることが山ほどある。ご飯のおかずには好き嫌いがあって、嫌いな物には箸をつけない。また、たまに構ってやらないと、機嫌を損ねることが多々あった。
私はへとへとに疲れてしまった。父の面倒をみるのはもうたくさんだ。自分の方がどうにかなりそうだった。心労は計り知れないものがあった。
私は決意した。
電気行火のコード部分を父の首に巻きつけた。尊属殺人はより罪が重いことを知っている。そこで、父が寝惚けて電気行火のコード部分で自分の首を絞めた格好に見せかけることにした。後は両手に力を込めるだけだ。永年溜め込んできた感情を爆発させる時だ。もはや、なるようになるしかないのだ。
その時、不意に父が寝言を口にした。
「忠弘、いつもすまん。すまんのう…」
夢でも見ているのだろうか。しきりに謝罪の言葉を並べたてる。それは私が今からやろうとしている行為を見透かしているかのようだった。
私は手に力が入らなくなった。何度も試してみた。同じことだった。どうしても首を絞めることができなくなった。
私には父を殺せない。愕然とその事実に気づいた。殺せるわけがなかった。いくら憎んでも、父は父だった。同じ苗字を名乗り、生活を共にし、体内には同じ血が流れ、同じDNAで形成されている人間だった。
幼い頃の記憶が蘇った。どす黒い感情が芽生える前の楽しい思い出。父は私を誰よりも可愛がってくれた。仕事の合間に、飛行場へ飛行機を見に連れて行ってくれた。野球の試合にも連れて行ってくれた。縁日や海水浴、山菜採りにも連れて行ってくれた。父の笑顔、私の笑顔。思い出す。私が幼き日の父は、強くて優しくて格好いい存在だった。
私は父が好きだった。誰よりも好きだったのだ。その父を殺せるわけがない。いつしか、私は泣いていた。大粒の涙をこぼしていた。大きな鳴き声を上げていた。
すると、父はゆっくり瞬きをし出した。目を覚ましたのだ。側で泣いている私を見つめた。
「忠弘、どうした?」
しゃんとした、正気の声だった。私は泣くのをやめようと努力した。
「これは…」
父は起き上がり、自分の首に巻きついている電気行火に気づいたようだ。
「お父さん、ぼ、僕は、頑張った。頑張ったけど、もうこれ以上、お父さんと生きていけません。お父さん…御免なさい。お父さん…」
私は涙声で自分の窮状を訴えようとした。最後は声にならなかった。父は神妙な顔で聞き入っていた。そして、何かを察したような表情を見せた。何を察したのか、私には分からなかった。
と、次の瞬間、父はブルブル震え出し、急にひきつけを起こしたみたいに身体をぴんと張った。それから、
「うっ」
と一言漏らすと、再び布団に横たわった。
私は一瞬、何が起こったのか分からなかった。
「お父さん、お父さん!」
私は叫んだ。父の身体を揺さぶってみた。父は息をしていなかった。身体に力が入っていなかった。それ以来、二度と目を覚ますことはなかった。
呆然とした。取り返しのつかないことになってしまった。すぐに何をすればいいか分からなかった。気がつくと救急車が来ており、私は父の遺体とともに病院に向かっていた。
父は脳卒中と診断された。警察にも連絡して、洗いざらい正直に事情を話していた。不審がられたが、私は罪に問われることはなかった。それでも、後ろめたさのようなものが残った。良心が疼いていた。
父が死んだ二か月後、私は八千代市内のライブバーにいた。十人も入れば満席になる小さな店だ。
「ありがとうございました」
今、一人の女性がピアノの弾き語りを終え、拍手を浴びたところだった。
美咲である。
美咲は地元の大学に通う傍ら、このライブバーで月一回自作の歌を披露していた。私はネット検索で彼女が音楽活動をしていることを知った。居ても立ってもいられず、富山から八千代へ駆けつけた。美咲に会うのは二十年振りだ。忘れたことの無い愛娘。ただ、離婚して以来家庭交流を断っていたから、お互い面識がない。美咲は私が誰であるか知らないだろう。ライブを観に来たのは二回目。親子だと名乗りを上げていない。知れば美咲はかなり動揺するだろう。ライブバーに出演する演者とそのファン、という関係のままでいい。私は自分を納得させていた。美咲には若き日のひとみの面影があった。
美咲は父である私のことをどう思っているのだろうか。美咲からしてみれば、私はまだ乳飲み児だった彼女を捨てるように離婚した男である。酷い男だ。ひとみもひとみの親も私がそういう男だと言い聞かせているに違いない。
私は多分、美咲に憎まれている。私が父を憎んだように、自分の父である私を憎んでいることだろう。私と同じ血が流れ、同じDNAで形成されている人間なのだから。因果なものだ。
私は店を出た。今夜も親子の名乗りを上げることをせず、このまま富山へ帰ることにしよう。
外は雨が降っていた。傘を持たずに来たので、ずぶ濡れになったまま歩いた。
冬の雨は冷たかった。