帰郷
深井 了
「もしもし」
「神島ですが。」
「ああ、洋子か、俺だ」
彼女は眼の前にある鏡を見ているのだろう。暗い鏡の中に黒い長い髪の毛がまっすぐに落ち、眼だけが暗い中でギラギラ輝いている。
「どうしたの。」
彼女はゆっくりとした合間をとってからこう言った。私も彼女の取った分だけ合間をとり、ゆっくりと言った。
「今朝、お前が俺を殺す夢を見てねえ。」
「そう。」
彼女は静かに答え、電話の中にはまた音が無くなった。そして、又、しばらくしてから彼女は言った。
「それじゃあ、もう遅いんで、これで切ります。」
「だめだな。切っても又、すぐにかけるよ。」
私はあわてて追い打ちをかけた。彼女は切らないで待っていた。
「すぐ近くに来てるんだ。食事につきあってくれ。」
「だめです。……それに、私、もう食べました。」
「じゃあ、いいよ。コーヒーだけでもいい。」
それ以上断れる彼女ではなかった。私は待った。
「あそこでいいんですか。」
「ああ、待ってるよ。」
電話ボックスから出た時、暗い中から風が吹いて来た。大きな広葉樹の枯れた葉がアスファルトの上を這うように吹かれていくのを耳にした。
コーヒーが底に薄茶色の色をして少しだけ残っていた。彼女は外套のえりを立てたまま入って来た。黙ったまま坐った。濃い緑のワンピースを着ている。彼女がコーヒーを注文した後、私は今朝本当に殺される夢を見たのだと言った。彼女は又「そう」とだけ言った。
しかし、しかし、今日会いに来たのはその為ではない。自分は故郷へ帰ろうと思う。それを言いに来たのだと言った。彼女は又、「そう」と言ったが、その後でより静かに「いつ」と聴いた。
「明日だ。」
「もう帰らないつもり?」
私は黙って下を見ていた。彼女はその私を見ているのだろう。赤い口紅を塗っている。
「別れを言いに来てくれたの。」
私はなおも黙っていた。
私には畑を耕しながら時々出稼ぎに出る母が一人いた。そして古い家があった。家の前には大きな桜の木がある。私はそこに帰るのだ。
「もう絵はあきらめたの?」
私はあきらめなかった。あきらめ切れるわけのものでなかった。だが、古い農家の八畳にキャンバスを立て、オイルの臭いを立てて私がかけるのだろうか。
「何故ついて来てくれると言ってくれないんだ。」
「あなたに私は値しないからです。」
「僕が死んでもか。」
今度は彼女が黙り込んだ。延び延びとした美しい手。しわを経験したことのない顔が無理に大きなくぼみをつくろうとしている。そして、唇をきつく噛んでいる。
「僕がわからないからか。」
「ええ、そうです。」
「分からなければ愛することが出来ないというのか。」
彼女は再び黙っていた。首がうなだれ加減である。彼女には私が幻想なのだ。
「僕はただの土百姓なんだ。」
「自分には母だけがいる。その母がそう働けなくなりそうだし、僕は彼女を引き取るだけの力がない。それで、自分は国へ帰るのだ。母のめんどうと僕の世話をするそんな人が欲しい。そして、僕は君と分れられない。ただ、それだけのことだ。」
彼女はなおも黙っていた。下を向いて、じっとしている。
「それじゃあ、他の女と一緒に帰っていいのか。」
「ええ。」
「この前、あの橋の上で会った女でもいいのか。」
彼女はこらえるように黙っていた。泣いているのかも知れなかった。
私には、自分の不幸というものがしみじみと感じられた。ひょっとしたら、私立の中学校に行けてそして、楽しく友達づきあいをし、遊びながら大学を卒業し、就職を待っているそんな人生。それがやはり幸せな青春なのかも知れない。そのようなことを思ったのはそのような風態の学生が二、三人、隣の席にいて、楽しそうにサングラスをかけてみたり、相手の肩と敲いて見たりしていたからなのだと気付いた。
「僕は君と別れられない。」
結局、私は別かれに来たのである。実際、彼女が私の故郷の家のあのすすけた畳の上に坐っていることは想像出来なかった。そして、それ以上に私が故郷へ帰ることは着実な必然であった。私は描くか描かぬかは別として、あの八畳のだだっ広い部屋に自分の煙草を吹かしていることだろう。彼女への愛のように、激しくもなく、強くもないがもっと間口の広い恐ろしいものが、私の意志よりももっと深い所から私を引きうけていた。それは、私がその手足を持っている以上の必然だった。
私は実際母のことなどそれ程心配していなかった。ひょっとしたら、息子が夢を棄てて帰って来たように見えるかも知れなかった。又、私は故郷をそれ程愛してはいなかった。いや、憎んでいた。「絵描きじゃと。」「絵描きじゃと。」というような声が聴こえるような気がした。帰りたくなかった。強いて言えば、私はもう移り住むのが嫌になったのだ。自分がいつも、変わった場所にいる。……私は、そう、自分を一ケ所にとどめて置きたかった。そういう場所は、自分の生れて育った家以外になかった。私はあの古い家の暗い家の敷居やかもいの中に一つの肉体の安楽を感じることが出来るのだった。そして恐ろしいことにその安楽は、彼女の愛よりも強かった。
彼女は泣いていた。私は抱きしめたい欲望にかられる。そして、その欲望は真っ暗で悲しかった。
「真都子さんていう方でしょう。」
「いや、違うよ、さっき言ったのは嘘だよ。」
「君、君が……。」
彼女は黙って泣いていた。涙がボタンボタンと落ちていった。彼女は知っていた。私が嘘や冗談を言っていないことを、恐らく私よりも知っているだろう。
私は真都子という女を連れて帰るに違いなかった。母に出した手紙の中で、女を連れて帰ると言ったのは、どんなに考えても真都子という女のことであったのだ。私は何度もその考え方をふっ切ろう、それは洋子のことだと自分に言った。
しかし、そのふっ切った意志のあとから、地肌のような真都子の存在が浮かんで来るのだった。そうして、それは、私と故郷に連れて帰ろうとするものと一緒だった。
「今朝、君に殺されて本当に幸せだったよ。夢から覚めて、泣いていたよ。」
それは本当だった。
夢から覚めると、傍には真都子の体があった。
「絵が出来たら送って下さる?」
彼女は落ち着きを戻し始めた。
「出来ると思っているのか。」
「ええ、その気におなりになれば。」
私がその気になると彼女は信じているのだろうか。
ああ、しかし、私はその気になるだろう。その気にならざるを得ないのだ。私が生きて行くとすれば、あの広い八畳間でふつりあいな絵筆を動かし、近所の声が聴こえ、隣の部屋には背の小さい小太りの真都子が母を慰める言葉を与えているに違いないのだ。それが私の必然で人生なのだ。私はこのまま大きな声で夜の中に走り出したい衝動を感じた。
「それじゃあ幸せに。」
彼女は立ち、夜の中に消えて行った。私は黙ったまま、坐っていた。
「もしもし。」
「ああ、あなた? 切符は取れたわよ。それに退職金、割とたくさんもらえたわよ。お母さんに何がいいかしら。…………」