血の湯
壱
じゃらぁんしゃわぁんと鳴っていた琵琶の音が消えていくと、またしても妻の声が戻ってきました。
「貴男は自分が此の世で、最も悲惨な産まれ方をした人間と思っているようですが、もっともっと酷い惨い産まれ方をした人や、人にも為れなかった水子という者たちもいっぱいいるのよ」と、妻は冷静な声でこちらを諭しております。
その口調が一変して、初めての児を切迫流産で失った時の、「ごめんなさい、かんにんしてね。大切なあの児を救えなくて、許してね……」と両の目から泪をあふれさせ、か細い囁き声になっているでした。
妻の手をさすりながら、「またできるよ、またできるよ」と慰めつづけます。
ですが、医師から告げられた本当のところはと云えば、お腹の児の頭部は半分しかなく、これまであまり事例のない畸形だということでした。妻にはことの真相を明かさず、死産ということにしました。男の赤ちゃんでした。
そして二度目の妊娠がわかった時、喜び半分不安半分で食事も喉を通らぬ妻を、「心配ないよ。今度こそ大丈夫だから」と抱きしめ励ましつづけます。
それでも事態は悲惨極まりないものでした。またしてもお腹の児はあまりにも異常な畸形だったのです。
顔の真ん中に目が一つ、左手が一本、右脚が一本、そんな惨たらしい姿です。本来あるべき双眼は潰れてのっぺりしており、額中央の目は真ん丸で飛びだしています。
肩の付根から先の亡い手と股の付根から先のない脚の疵痕が瘤状に残っております。女の赤ちゃんでした。
医師は、「どうしてたてつづけに、こんな災難があなた方にやってくるのでしようか」と、訝りつつも慰めようもないといった顔でした。妻はまたしても、「残念ですが、今度は死産でした」という医師の言葉に絶叫するばかりでした。
その泣きさけぶ狂気じみた声と絶望の淵で痩せおとろえていく妻の最期の様相が、石窟の部屋にかかっている黄金色の垂幕にぼおっと浮かんできました。
それから妻はその幕の、夢景色の奧へと遠離っていきます。
それでもその姿は痛ましく儚げな様子ではなく、二人の児たちの手を引いて、しっかりとした足取りで、初冠雪に映える霊山の麓を、紫がかった針葉樹の森のほうへと歩いていくのです。
妻の右の手は頭半分の男の子の手を、左手は一つ目の片手片脚の女の子の手を取り、三者それぞれ楽しげに見えます。女の子と男の子は時折けんけんしながら、仲むつまじく玄妙な一体感を醸しだしております。けんけんパッと脚を開くそのパッの瞬間、亡いはずの女の子の片脚が顕れ、半分欠けているはずの男の子の頭が出てきて愛らしい容顔が見えます。女の子の突出した一つ目もすぼまり、二重目蓋の両眼が見えます。それらはほんの一瞬の幻像でしたが、網膜に貼りついて消えません。こちらの入る余地のない気がするなか、どれだけ追いつこうとしても、三人との距離を縮めることはできません。
やがて森は幾つもの丘陵を成し、遠くを仰ぎみれば、薄紫に烟る霊山が望見され、やがて遠山歩みきたりて眼前に迫れば、手前は幅ひろい深き谿谷となり、眼下には緑青の淵が白波を立てて滔々と流れているのでした。
息をきらせて崖縁に佇んだ時には、もう三人の姿は亡く、霧状の薄い膜の向こうには、五重の塔や幾層もの大屋根をつらねた寺院の甍が点在し、聚落の屋根もまた列をなして建ちならび、あちこちの家屋から竈の煙がたち昇り靡いております。
酒蔵も見え、その前にはたち呑みする半裸の男たちが焼鳥などを囓っている屋台らしき物もあり、随分な人だかりで賑わっているのです。柳の枝葉が小さな羽根に似た無数の若葉をつけて絡まりゆれる樣は、その楊柳の合間くを埋めて拡がる桜花を一段と引きたたせ、淡い翠の煙霧のたち罩(こ)める通路をゆき交う人々に混じり、菅笠や帚などを背負って売りあるく商人たちの姿も隠顕し、また子供等がその間をばらばらと走りまわっていたりします。さらにそんな人たちに守られるように、肘から下が亡い人や膝から下を失った戦傷者らしき人などが、松葉杖に縋って蹌踉たる足取りで?を前へ動かしております。
それでも、貴賤を問わぬ姿形の人物たちが皆、等しく自然に折りあいをつけて歩いているのが目に優しく、見おろす景全体を幽邃(ゆうすい)なものにしているのでした。
こちらが息をひそめてひたすら妻と子たちを探していますと、大岩の上に陣取って細竹の先から伸びる糸に取りつけた鉤針で、桜鯏(さくらうぐい)か鮎の稚魚でも引っかけて嬉々としている子等の姿を、静かに眺めている妻をどうにか見つけだすことができたのです。
憂いなく微かな笑みを湛えた妻の様子に、胸が塞がるほどの歓喜が込みあげてくるのでした。息を整え、声を張りあげるまでに、大層な時を要しました。
「おおおぅい、おおぉぉぉい。待ってておくれよ。今すぐそっちへ行くからなぁぁぁ」と両の手が千切れるほど振って合図すれば、妻も気づいてくれたか、ちょこんと首を垂らしたのでした。
「あのとき、わたしは病院で何にも食べられなかったんではないのよ。わたしはこの子等の死出の旅路に同行しなければならなかったの。貴男を独りぼっちにしてご免なさいね。復(また)逢える時までがんばって、白髪になるまで生きぬいて頂戴。きっと、きっとですよ」
妻の声は遠い彼方から響いてくるように、ようやく聞きとれるものでした。幼気(いたいけ)ない子等を見るのはあまりも辛く切ないことでしたが、魚を獲る無邪気なそのふるまいに一時(いっとき)心が和みました。
同時に、いつかまた確かに、妻との再会が叶う日のくる気がしたのです。
すると、再び琵琶の音が響いてきました。
【あんたを便器のなかに産みおといたがは、あてが十九の歳やったわいなぁ。臍の緒を懐に呑んどった匕首で切って、後はなんがどうなったかわかららんまんま、一目散にその場から逃げてしもうたがやわいなぁ。済まんことやった、やくちゃむない為業(しわざ)やった。堪忍しとくれ、かんにんやとことぉ】
琵琶の音色に隠れて消えいりそうな低い声を、どうにか聴きとることができました。
心乱れつつも、声若き娘が弾奏する琵琶歌の悲しげな音声に運ばれ、遙かな彼岸の妻の耳にも届いているだろうか、と楽に従いて耳を欹(そばだ)てているのでした。
弐
「よう来(こ)られた。此処は【遊ぶ部(べ)】という秘境の部落ながよ。平家の落人やら息子に背負われてお山参りにやってきた老母らちの、生きのこりの隠れ里よ。そしてこの湯宿は、【血の湯】と呼ばれてきた、開湯千年の秘湯ながやて」と云いながら、口元へ掌をもっていくのでした。
その湯宿の女将の顔が微笑んだとみる間に、白い漆喰に似た厚化粧の顔面にいきなり罅(ひび)が入り、ぱらぱらと表面が剥がれおちて、たちまち素顔が顕わになったのでした。
その素顔は赤茶色に火ぶくれて、下目蓋からも鼻の孔からも口尻からも、たらたらと血糊が滴っています。
耳朶からは黒ずんだ血のかたまりが氷柱(つらら)のようにぶら下がっております。
吹雪のなか、ゆき倒れていたのを湯宿の下足番に発見されて運ばれ、初めて女将と顔を合わせた時のこともさることながら、此度もまた、新たな変化(へんげ)に度肝をぬかれました。
「こんな顔で、さぞやびっくらこいたやろね。ほんでもなぁ、気ぃが遠なるほどの歳月、こんなとこの湯宿の女将をしとると、それに相応しい顔になろうというもんやて」と笑うて、ずるりとその顔面を撫でおろすのです。
この湯宿は峨々と聳えつらなる岩山の、下方を刳りぬいた岩屋に、玄関口がすっぽりはまり込んでいて、岩屋のなかには幾つあるのかわからない数の大部屋・小部屋が連なっております。その大部屋の大半に沢山の機織機(はたおりき)が並んでおり、布を織る、ぱたぁん・とんとんという音が響きわたり、不揃いな重層音が連山全体の巌をゆるがしているのです。
岩壁に板を貼りつけて岩床には頑丈な根太を設え、杉の床板を載せて畳を敷き、それぞれ障子や襖で日本間らしく仕立ててあります。また岩屋のなかには長屋風の湯治部屋が何列にもはめ込まれてありますが、今は湯治客が煮炊きしている気配はありません。
最も不可解なのが、湯殿の造形なのでした。
?を洗い、さっと湯に浸かってあがる分には何ということもないのですが、長湯をすれば人によつては異変が起きるのです。
まるで罰(ばち)が当たったかのように、その人によって前世が開かれていくとのことでした。
夜半に湯に浸かっていると、素早く左足の先から入り、それから静かに腰から胸へとからだを沈めていく感じが、妻そっくりな女の姿に見えて、想わず、「あぁっ」と叫んで、切ない吐息が漏れました。常に妻の面影を求めて流浪してきた痩身が震えます。
顔は見えなくとも、項に貼りついている濡れた後れ毛はまぎれもなく、妻のものです。 ですが、少しでも?を動かし湯面を波立たせれば、たちまち消えてしまいそうです。
両脚の指先に神経を集中してにじり寄っていきます。静かな夜風になった心映えがして、そっとあわてずに、こちらの胸を妻の背に副わせます。
その瞬間、「またぁぁぁ、誰かとぉぉぉぉ、間違えぇぇぇとるんやぁぁないのぉんぉんぉん」とふり返ったのは湯宿の娘でした。にっこりほほ笑んだ娘の顔が湯のなかに隠れてしまうと、たちまち湯面が血の色に戻り、そのなかに海鼠(なまこ)のような、海月(くらげ)のような、得たいの知れぬものの揺らいでいるのが見えるのでした。恐怖よりもその形が亡くならないように必死で掴もうとしていました。
そしてまず鷲づかみにしたのが、娘の両足の指先でした。というより、握ったやわらかいものが足の指になったという感じでした。
「あたいのぉぉぉ両足指がぁぁ四本しかないのぉぉぉわかったやろいねぇぇぇ」と、娘の声がぷくりぷくり湧きあがってきます。
「源平の時代から南北朝のむごたらしい世を継いで、時には血で血を洗う一族同士の爭いが繰りかえされたがよね。兄弟がそれぞれの子や孫やらを殺しおうて、陰謀術策いり乱れて地獄絵さがらだわいね。そんな因果の報いの徴(しるし)がこんな不具合なんかもね」と、ようやく発音が整えられ、自嘲気味の声が湯殿の天井に響くのでした。
そしてまた、「さぁぁぁあたいのぉぉ他(ほか)んとこも触ってぇちゃんとしたぁぁからだにぃぃ戻るよぅぅぅ祈っとくれなぁぁ」とせがむのです。どうやら娘は言語障害も酷く、お湯のなかに身を浸すことで、やっとしゃべり方をふつうに戻そうとしているらしいのです。
娘がせがむ通りに、腰とおぼしき辺り、胸とおぼしき箇所を手探りまさぐりしつつ撫で、熱い蒟蒻(こんにゃく)を両掌で千切るように剥がしていけば、妻の肌触りそのものが表れてきました。何としてもその懐かしいからだを抱きしめんと祈るほどに、いつしか湯からあがった浴衣姿の娘が、胸に抱いた琵琶を弾きはじめ、「これはあたいのたった一つの楽しみながよ」と、軽やかにしなやかに、嫋嫋(じょうじょう)と撥(ばち)を揮(ふる)うのでした。その調べにのって、娘の容姿より変じ現われては消える妻の残影を両掌で掴もうとしたその時、湯がぐるりぐるりと回転しはじめました。
するとお湯の色が、さあっと変わりだしたのです。
薄く湯気の漂う湯面が、次第に濃い赤紫に変色していっているではありませんか。
真っ赤になったお湯は、油のようにぬるりとしておるのです。
血の湯であることがよくわかりました。
石窟の孔の内部には、それぞれに黒光りした湯殿ができていて、どこも血の泡がぼこぼこ溢れております。
そして壁一面にはり巡らされた淡い黄金色の透きとおるような、蓮の繊維を束ねた藕糸(ぐうし)で編んだ垂幕には、妻と知り合った頃の様子や子たちの生まれた時のことやら幼い時分の有様が写しだされています。
どこからともなく、娘の歌声が聞えてきます。琵琶の音に合わせて、切ない歌を唄うのです。その声がたわぁんたわぁんと揺蕩(たゆた)いながら、それぞれの血の孔に響きわたります。
あちこちにある大小の湯殿の一つ一つで、今もおびただしい数の首が洗われ浄められているような気がするのでした。
その時、「ほおぅほおぅほおぅほおぅほおぅ、くくぅっくぅっくぅっ」と、梟(ふくろう)のなくような笑い声がしました。
気づけば、あの女将が素っ裸になって、前もかくさず血の湯に入ってきていました。
「一緒に入らいてもらうねぇ」と声をかけてきます。
「どうぞ、どうぞ」と血の湯へ一緒に入る奇縁を感じながら、二人でその血の温かさのなかに浸りました。
赤茶色に火ぶくれた素顔は、昼間見たように血が滲み、耳朶からは黒ずんだ血の塊がぶら下がっているのですが、それとは反対に下のほうは白く、女身の美しさを保持し、奇蹟のようなまぶしさを放っております。
異界の血みどろの湯に浸かっている自分の首を、じゃぶじゃぶと洗われている戦国の修羅の首に準えば、それほど場違いな処にいるとも思えない気がしてくるのでした
それにこの血の湯は、どこかに再生の力が潜んでいるように思われてきました。
「一緒に入らいてもらうねぇ」という女将の籠もった声に聞きおぼえのある気がしたとたん、すぐ傍らにいた女将のからだがこちらから離れていきました。
そして何かがすとんと腑に落ちたのを境に、湯殿の景色が変幻しはじめたのです。
娘の弾く琵琶の音が洞窟に一段と高く反響したその瞬間、周りの血の湯が漏斗状に凹んでいき、湯殿全体へ拡がる巨きな渦巻になって轟音をあげだしました。
さすがに気が動転して、湯殿の縁にしがみついたのですが、?ごと頭から渦のなかへひきずり込まれていきました。
湯殿の底がぬけて、地下へどこまでも堕ちていき、筒抜けになった縦穴が天高く伸びているのでした。
参
ぐるぐる廻る?がのびたりちぢんだり玉になったり一本の棒になりして激流にのまれていきます。
そのうち血の瀑布となってどんどん堕ちていく間に眩暈がひどくなり、ほとんど意識を失いかけました。
勢いよく、顔、胸、腹、太股、と同時に叩きつけられ、油の膜に大の字に貼りつけられた感じがして我に還りました。
一瞬、粘着性のシートに捕らえられた、あの昆虫の焦りと必死さが解りました。
ぬらぬらした血糊で思うように動かせない?を、やっとのこと反転させ見わたせば、そこは広く大きな河のようでした。
天井から沢山の石灰石が氷柱となってたれ下がり、赤黒い淀みが波うち、端のほうから洞窟の奧へ奧へとゆるやかに流れています。
その流れに身をまかせてほっとしているうち、崖っぷちになった巌の切れ目から、とんでもなく巨大な地底湖へと滑りおちていったのです。
どうにか見あげれば、高々と開かれている六角形の天空は透きとおった蒼に満ち、その中心に白銀の望月が光りかがやいています。
ふり注ぐ月魄は血の湖面を晴れやかに浄化し、信じられないくらい透明な一色に変えていました。
湖底には夥しい数の樹木の幹や枝が縦横に積みかさなっており、極めて透明度の高くなった水の層へ視線を差しいれてみれば、それらは凡て人の骨に見えてきました。
絡みあい貫きあって、湖底にあるものを皆、覆っているふうでもあります。
こちらもやがてそのなかへ組みこまれていくのではないかという、おぞましく強い恐怖を覚えるでした。
先に堕ちていった女将の姿は見あたらず、その変わりずんと下のほうに、ぽつんと小さな赤いものが揺らめいております。
女将の行方を捜そうと思いきり胸いっぱいに息を吸いこみ、心得のある素潜りでどんどん深みを目ざしました。
そして辿りついた湖底に建つ、朱色の鳥居にかけられていたのは、日中、女将が纏っていた奇抜な金糸銀糸が入っている、藕糸で織られた黄金色の長羽織でした。
網目模様に絡んだ人骨のなかには、当然の如くに骸骨がひしめき合い、馬蹄の響きと共にどっと上がる鯨(とき)の声となり、槍や刀の打ちあい咬みあう音になり、弓の軋みやひょうと飛びかう矢音ともなつて、速い汐の流れに揉まれぶつかり合う舳先の炸裂音など、戦場(いくさば)の音響の凡てがいり乱れ、果ては蜷局(とぐろ)を巻く巨大な渦にひきずり込まれたと思う間もなく、陵(みささぎ)かと見紛う白い丘陵の麓に建つ、鳥居の前に着地したん、それらの轟音はたちまち消えうせてしまっていたのでした。
そこに点滅するあらゆる物象が源平の昔から続いてきた落人たちの、苦難の標しと偲ばれました。
鳥居をくぐり、ゆるやかな段坂を泳ぐように上がっていきます。
もう息継ぐ必要もなく、自分が大山椒魚にでも化(な)ったかの如くに、?全体が自然にくねりだし、鰓呼吸している気分になりました。
白い骨が堆く積もった丘の頂上には、名も知らぬ一本の巨樹が立っておりました。
灰白色の苔状の樹皮がへばりついている巨樹は、十人が手をつないで繞(めぐ)ってもまだ足りないほどでした。下枝が何本も段々になつて四方へ張りだしております。
上へいくに従って、それは少しずつ細くはなっていきますが、何十層にも重なる枝や幹は、瑠璃色に月光を乱反射して目が眩むばかりです。
全容を仰いで見れば、宇宙樹といった景色で、あちこちの幹枝には数多(あまた)の落ち武者の首や、女官らしい女人の首がまるで雛壇に飾られているかのようにたわわになっております。その間には修羅の太く逞しい腕や刀が反りかえり、叉逆に白くふっくらとしたそれでいてなよやかな女人の細腕から、手首の先に撓(しな)う手の甲に、掌(てのひら)は紅葉のように表になり裏になりして翻(ひるがえ)っております。
その無量無辺に拡がる幻視の像が水の風に吹かれて漂い、ぱぁっと種子花粉が舞い散るなか、凋落の夕映えと蘇生の朝焼けとが繰りかえし映しだされていきます。
目が眩みました。
一歩二歩退いて見わたせば、ふくよかで慕わしい本来の女将の相貌が顕れ、大樹全体を例の長羽織がすっぽりと覆っているのでした。女将の呟くような、念仏を唱えるような声が届いてきます。その贖罪(しょくざい)を感じさせるか細い声は、確かに以前耳にしたものでした。 丘の麓の岩壁の正面当たりには、半円形の穴が空いており、なかは空洞になっていて、天井はかなり高く伸びております。
そんな自然な祠のなかには、一体の宝蔵菩薩が安置されていました。
その前に跪き拝顔すると、どことなく妻の面影が偲ばれました。もう妻がいないことを承知しながら、他国を彷徨い、良く似た女の人を見かければ、つい後を追ったり、前へ廻って面立ちを確かめようとしたことは枚挙に暇がありませんでした。
木彫りの 佛(ほとけ)のなかに隠見する妻の顔を必死に見つめながら、その名を呼びかけ掌を合わせます。
公園の和式便所に産みすてられていた出自の、天涯孤独の自分に、そんなことは意にも介さずに副うてくれた、たった一人のかけ替えのない女性でした。
すると、呼びかけた菩薩の両眼から、つぅーと一筋の血涙が滴りおちました。それを見て、妻がこの血の湯とその湖底へ導いてくれたのかと思いました。
そして妻が自分と暮してくれた所以も解った気がしました。
「待ってたわ」と、妻の声が聞こえました。
二人の子たちもその傍らに笑顔で立っています。
思わず我に還ってみれば、夕霧漂う薄暮のなかに、懐かしい我が家と木工の作業場と、その周りの木立や草花が動画のように、もわぁっとたち現れておりました。それを夢幻の景色と怪しみつつも、かつての命の営みと鼓動がひたひたとうち寄せてきます。
築何百年も経っているように見える古民家に、あらゆる種類の昆虫をはじめとして爬虫類など、棲息する数多の生きものがまつわりついて、命を繋ぎつづけているのです。
山楝蛇(やまかがし)や小さな黒蛇から蝮までが周りの叢にひそみ、天井裏の梁や部屋の鴨居などには、太く長い青大将が、我がもの顔にのたりのたりとくねり巡っております。あちこち脱殻だらけです。
蜥蜴(とかげ)などはこそこそと走りまわって壁や障子をがさつかせています。家守(やもり)は俺たちこそが先住民とばかり、硝子戸に横柄な貼りつき方をしてびくともしません。
蟻の行列などが地面いっぱいに黒々と拡がっています。蠅や蚊に至っては、両手で払っても追っつかないくらいうるさく飛びまわっているのです。
百足はやたら大きく、逃げ足の速さは驚くべきものです。巌のような蟇蛙の鳴声は地鳴りかと恐怖を覚えました。
一緒になって二人で住んでみて、自分たちが原始人になった心持ちでした。妻はそんな生きものたちを目にする度に、どこから出るのか信じられないすっとんきょうな叫び声をあげてしがみついてくるのでした。
それでも、その蛇や蜥蜴や家守をはじめ、沢山の蟻や蛙たち、昆虫たちは、そのおぞましい蠢きのなかから、日々新たな血盟を生みだし、不思議な光芒を放ちはじめるのでした。 その様相を見て、妻が云うのでした。
「この子たちを抱いて。わたしを抱いて」
痛ましい子たちを引きよせ、渾身の力で愛しい妻を抱きしめました。
すると絡みあった蛇たちが放ちはじめていた光りはいっそうの眩しさを帯び、ますます膨らんで大きくなり空中へ昇っていくにつれ、地表へ向かって月明かりを凌ぐほどの強烈な光を照射していきます。
月魄(げっぱく)を呑みこんでしまうほどの、皓々とした光線は遍く地表を照らし、聚落のふもと一面に遠くまで拡がる湿地帯は大鏡となり、やがてその鏡面に咲きほこるであろう、薄紅色と純白の蓮の花々を蔵した小さな新芽がぷくぷくと泡を噴いているかのようです。
満月の真白き光が耀き、また朝陽夕日に染まる深紅の景は別乾坤(べつけんこん)としか云いようがないでしょう。オーロラの棚引く閃光が映っているような絶景かもしれません。
いつしか一心に妻の名を呼び、子供たちの付けてやれなかった名を呼びつづけました。
するとそれに呼応するかのように、撥音激しき琵琶の音が天上から降りそそぎ、天地の凡てを変えていくほどに轟くのでした。
さらにその音色に応えるように、どの岩屋の血の流れも滾りたち騒ぎだすと、飛沫をあげた太いうねりとなって立ちあがりました。
それは途方もなく巨きな生きた龍の形を為し、天空へ昇りはじめました
血をほとばしらせた昇龍は天地を巻き、咆え猛りつつどこまでも飛翔していきます。
我ら親子の魂を永遠の地へ運んで行こうとしているのかもしれません。
鋼のような鱗がぴしぴしと風に鳴り、長くうねる二本の鬚は龍体のくねりにあわせて靡(なび)き、頭部の両端から生えた逞しい角はびゅんびゅん風を切つております。
天翔る融通無碍な飛行体となっていく血龍に何もかも任せていくだけでした。
爛々とかがやく真っ赤の双眼は蒼穹の彼方まで見通し、両の前足でがっしり握った命の水晶玉は当方の未来を照らしてくれているようにも見えます。
やがて血龍は灼熱の大気圏を突きぬけ、さらに高々と星々が煌めく天空へのぼつていきます。夜空には稲光がはしり、夥しい数の流れ星が過ぎっていきます。
気づいた時には天の川を見霽かす、天湖と思われるところの表面へ、血龍はこちらが入っている水晶玉と妻が入っている玉をしっかと握って見事に着水しておりました。
一方の玉のなかでからだを丸めた妻の両の掌には、七色にかがやく小さな水晶球が握られています。その珠にはそれぞれ二人の子たちが眠っていました。
こちらの玉と妻のほうの玉の間には、天の川が横たわっているように見えました。
星々が集まった広大な天の川の水辺に、今は昇龍変じて長大な大船と化った白い天龍が浮かんでおります。
家族四人してその大船に乗りうつり、永遠の大河へ船出せんとしたとき、【白楽天の琵琶の行(うた)】が歌われ、一際簫条とした琵琶の音が鳴りひびいてくるのでした。 了